昭和7年(1932年)、日本陸軍は川崎航空機がドイツ人技師フォークトの力を借りて開発した複葉戦闘機を九二式戦闘機として採用しました。
しかし、九二式戦闘機はBMWエンジンをライセンス生産したエンジンの信頼性が低く、稼働率の悪い戦闘機となってしまい、あまりよい戦闘機とはみなされませんでした。
そこで川崎航空機は、逆ガル翼を採用した単葉戦闘機を九二式戦闘機の後継機として開発しますが、これまた安定性や運動性に難のある機体で、陸軍からの採用を得ることはできませんでした。
昭和9年(1934年)になって、陸軍は改めて川崎航空機と中島航空機に九二式戦闘機の後継機を開発するよう命じます。
これ以上の失敗は許されない川崎は、新機軸を盛り込みすぎた単葉戦闘機ではなく、堅実に安定性運動性を重視した複葉戦闘機を開発することにし、九二式戦闘機の改良発展型の機体を作ることにいたします。
試作機は翌昭和10年(1935年)の3月に完成し、中島製の機体と比較審査が行われました。
中島製の機体は単葉の高速機であり、速度性能では川崎の試作機は分が悪い状況でしたが、半面複葉であることから運動性と安定性に優れ、また上昇力も中島製の機体を上回るものでした。
陸軍はこの比較審査の結果から、川崎製の複葉戦闘機を採用することに決定し、同年九五式戦闘機として制式採用となりました。

九五式戦闘機は、試作機とほぼ同型の1型が約300機ほど作られたのち、主翼を改良して運動性をさらに向上させた2型がこれも300機ほどと、合計で600機弱が生産されました。
これらはすぐさま中国大陸での戦闘に投入され、日中戦争での日本陸軍の主力戦闘機として活躍することになります。
九五式戦闘機の高い運動性能は格闘戦において無類の強さを誇り、中国軍のソ連製複葉戦闘機I-15を圧倒したといいます。
また、ソ連軍との戦いとなったノモンハンの戦いでも、序盤ではソ連空軍に単葉のI-16が少なかったこともあり、I-15と互角以上の空戦を行うことができました。
しかし、ソ連軍が性能のよい単葉戦闘機のI-16を投入するようになると、やはり空戦での不利は否めず、新型の中島製九七式戦闘機にその主力の座を譲っていくことになりました。
九五式戦闘機は、その性能のバランスの高さから、日本陸軍複葉戦闘機としては最強の戦闘機といわれ、世界的に見ても高レベルの複葉戦闘機でした。
ですが、すでに時代は単葉機の時代になっており、複葉機の時代は終焉を迎えておりました。
九五式戦闘機は、最強の複葉戦闘機であると同時に、日本陸軍最後の複葉戦闘機でもあったのです。
それではまた。
- 2011/06/25(土) 21:16:05|
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