ラス・ムルゲータとその軍勢を失い、ラス・イムルの軍勢もまた散り散りとなり、ラス・カーサ、ラス・セイオームの軍勢もほぼ戦力を失うという大敗北を喫したエチオピア軍に、残された戦力はもはやハイレ・セラシエ皇帝直属の軍勢しかありませんでした。
セラシエ皇帝は、その親衛隊とともに首都アディスアベバ防衛のため、マイ・チュー(マイチャウ)の町に布陣しておりました。
そして、前線の崩壊を知ると、最後の決戦に向けてマイ・チューを出発します。
すでに勝算などなく、これは賭けにも等しい出陣でした。
しかし、彼の率いる皇帝親衛隊こそが、エチオピア最強の部隊であることは紛れもない事実でした。
フランスの軍事顧問により軍事教練を受けた彼らは、フランス製の火砲を持ち近代化された軍勢でした。
その能力は欧州の一線級軍隊になんら引けをとるものではなかったのです。
そして、各省庁からの官僚を集めた「エチオピア閣僚軍」も皇帝に付き従います。
彼らも最終決戦に向けて士気は高く、その能力を存分に発揮することが可能でした。
1936年3月31日。
世に言う「マイ・チューの戦い」が始まります。
エチオピア軍の攻撃を迎え撃ったのは、イタリア軍山岳歩兵師団と、第一エリトリア人師団および第二エリトリア師団という二つの植民地兵部隊でした。
この日はエチオピア軍にとって幸いなことに曇天であり、イタリア軍の航空戦力は使えない状態でした。
セラシエ皇帝は、まず露払いとして皇帝親衛隊以外の部隊に前進を命じ、イタリア軍山岳歩兵師団を攻撃します。
しかし、高地での戦いに慣れている山岳歩兵はなかなか手ごわく、エチオピア兵の攻撃に崩れそうもありません。
そこでセラシエ皇帝は矛先を変え、植民地兵であるエリトリア人師団を攻撃します。
やはりエリトリア人兵は士気が低く、エチオピア軍の攻撃に一旦は陣地を退きます。
しかし、すぐに反撃を行い、前線では一進一退となりました。
ここでセラシエ皇帝は親衛隊の投入を決断。
満を持して皇帝親衛隊が戦闘に参加します。
近代火砲の支援を受けた皇帝親衛隊はさすがに強く、エリトリア師団はたちまち後退を余儀なくされました。
ここで更なる追撃を行えば、エリトリア師団は崩壊し、イタリア軍は前線を維持できなくなるはずでした。
しかし、またしても女神はイタリア軍に微笑みます。
空が晴れたのでした。
晴天となった空にイタリア軍航空機が現れます。
イタリア軍航空機は爆弾と毒ガス弾をまたしても容赦なく撒き散らし、エチオピア軍は大きな被害を受けました。
エチオピア軍に戦闘機がないため戦う相手のいないイタリア軍の戦闘機は、グッと高度を下げて機銃掃射までしていきます。
優勢に戦いを進めていたエチオピア軍は、ここでもまた航空機によって戦勢を逆転されてしまいました。
セラシエ皇帝の下、果敢に戦ったエチオピア軍でしたが、二時間ののちに残ったものは壊滅した軍勢だけでした。
セラシエ皇帝は部下に引き連れられ戦場を離脱。
残ったエチオピア兵も退却を余儀なくされました。
こうしてこの戦争における最大の戦いとなった「マイ・チューの戦い」は、十四時間で終わりを告げました。
エチオピア軍は最強の皇帝親衛隊を失い、もはや戦う力は残されていませんでした。
イタリア軍はエチオピア軍の負傷兵が運び込まれた病院にまで爆弾や毒ガス弾を落とし、エチオピア軍の兵力は五千人に満たないほどまで減らされたのです。
首都アディスアベバでは、もはや皇帝自身の安全も確保できないとして、議会がセラシエ皇帝に戦場より帰還することを懇願しました。
セラシエ皇帝はそれを受け入れてアディスアベバに帰還します。
アディスアベバ正面には、もうエチオピア軍の軍勢はほとんど残っていませんでした。
バドリオ元帥は進撃を再開し、それに呼応するかのように、ソマリランド方面のグラツァーニ将軍も進撃を再開します。
ソマリランド方面では、トルコ人ウェヒブ・パシャの築いた「ヒンデンブルク・ライン」という防御線がイタリア軍を迎え撃ちます。
ラス・ナシブが約三万の兵で、この「ヒンデンブルク・ライン」に立て篭もりますが、ここでも毒ガスや火炎放射器装備の戦車などが威力を発揮し、イタリア軍は10日間ほどの戦いで二千の損害を出しながらも突破することに成功します。
4月5日にカロム、4月14日にデシェ、4月25日にはフィシェが陥落。
バドリオ元帥麾下のイタリア軍は、アディスアベバまで指呼の距離へと迫ります。
1936年5月2日。
ついにセラシエ皇帝は一族を引き連れてアディスアベバを脱出。
フランス領ソマリランド(現ジブチ)に逃げ込まざるを得ませんでした。
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- 2010/11/30(火) 21:32:27|
- エチオピア戦争
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