イタリアの侵略行為に対し、戦争もやむなしとして着々と開戦準備を行っていたエチオピアは、国家総動員を発令して約三十五万人という軍勢を集めました。
しかし、その大半は充分な訓練をされていない新兵同然の兵士であり、その武器も弓矢や槍といったものがまだまだ幅を利かせておりました。
一方エチオピアに攻め込もうとしていたイタリア軍ですが、開戦時点ではアフリカの地方国家相手には充分すぎるほどの軍勢を送り込んできておりました。
イタリアは主戦線をエリトリアからの侵攻に置いており、エリトリアには陸軍五個師団を中核にして、ファシスト党の私兵集団を軍隊に格上げした黒シャツ隊を五個師団、計十個師団という兵力をそろえます。
また、副戦線であるソマリランドにも陸軍一個師団を派遣し、黒シャツ隊も大隊規模で数個送り込んでおりました。
イタリア軍の総兵力はおよそ二十万。
火砲は約七百門。
戦車は約百五十両。
航空機も同じく百五十機ほどが配備されておりました。
さらに、現地徴収兵で構成されたアスカリ部隊が二個師団以上の兵力を持っておりました。
とはいえ、多くのアスカリ部隊を構成する現地人兵士は士気も低く武装も貧弱であり、また戦車も戦車とは名ばかりの機関銃のみを装備した機関銃搭載装甲車といってもいいような代物でしたので、見た目ほどの戦力があるわけではありませんでした。
この当時、欧州の各国軍の一般的な師団編成は、連隊を三個合わせてそれに補助部隊(機関銃などを装備する重装備大隊や偵察大隊、支援砲撃をする砲兵中隊や補給部隊など)が付随するという「三単位編成師団」と呼ばれるものでした。
イタリア軍も基本は三単位編成師団でありましたが、いくつかの師団は連隊を二個しか持たない「二単位編成師団」でした。
これは、通常一個師団が戦闘を行うときには、三個連隊のうち前線に二個連隊を出して、残り一個連隊は予備に回すというやり方をするのですが、二単位編成師団はその予備に回す連隊を削除することで、三単位編成師団よりも小回りが利き補給も少なくてすむという利点があるとみなしたものでした。
この二単位編成師団は、この「(第二次)エチオピア戦争」ではそれほど問題とはなりませんでしたが、のちの第二次世界大戦ではやはり戦力不足が露呈して悲惨な状況になってしまったといいます。
イタリアは、額面的には兵力数でそれほど遜色ない数を誇り、砲や車両、航空機も数的には圧倒的な数を集めておりましたが、その実力はそれほど高いものではなかったのです。
1935年10月3日、宣戦布告なしにイタリア軍がエリトリアからエチオピアへと進撃を開始します。
司令官はエミリオ・デ・ボーノ将軍。
彼は今回のイタリア軍総司令官ではありましたが、ソマリランド方面の部隊を指揮するのは無理があるため、このエリトリア方面からの部隊を主に指揮しておりました。
エリトリア方面からの部隊は総数十二万五千。
ですが、その中にはアスカリ部隊も多く含まれておりました。
一方ソマリランドからは、ロドルフォ・グラツァーニ将軍率いる助攻部隊が進発。
こちらは主力部隊とは異なり兵力は少ないものの、機動戦の何たるかを知っているグラツァーニ将軍は麾下の部隊を機械化機動部隊として編成し、その機動力でエチオピア軍を翻弄する作戦を行います。
また、こちらの方面に配されたアスカリ部隊は、主にリビア人を中心としたアスカリ部隊であり、士気も戦力も高い有力な兵力としてグラツァーニを助けました。
こうして「第二次エチオピア戦争」が始まったのです。
(9)へ
- 2010/10/26(火) 21:25:43|
- エチオピア戦争
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
>>2010/10/27(水) 00:55:10の方
はじめまして。
コメントありがとうございます。
同じ阪神ファンとのことで、私もうれしく思います。
こちらこそよろしくお願いいたします。
- 2010/10/27(水) 21:10:52 |
- URL |
- 舞方雅人 #-
- [ 編集]