「エブロ川の戦い」でフランコ側ファシスト軍に大損害を与えた人民戦線側でしたが、踏みとどまったファシスト軍に対し、人民戦線側はもはや攻勢を行なう力を失っておりました。
人民戦線側にとって最後の望みは、ヒトラー率いるドイツがチェコスロバキアに対しておこなった領土割譲要求を英仏が拒否することで第二次世界大戦が始まり、ファシスト軍に対抗する人民戦線に英仏の支援が行なわれるというものでありましたが、9月におこなわれたミュンヘン会談の結果は人民戦線の期待を裏切るものでした。
英仏はヒトラーのドイツに宥和政策で望み、第二次世界大戦はまだこの時点では起こらなかったのです。
それどころか英仏は、ソ連が広げつつある共産主義という脅威に対して、ファシストが防波堤の役目を果たしてくれるとまだ考えており、ソ連の影響下に置かれてしまった人民戦線を逆に不安の目で見ていたのでした。
その結果、人民戦線への英仏の支援の望みは無くなり、もはや人民戦線が頼るのはソ連だけという状況になりますが、ソ連とのつながりが強くなればなるほど、スペインの民衆からは支持されなくなって行きました。
1938年10月、人民戦線側の大攻勢をしのぎきったフランコは、ファシスト軍に反撃を命じます。
勢力を使い果たしていた人民戦線軍の陣地は瞬く間に突破され、ファシスト軍は各地で人民戦線軍を敗走させました。
人民戦線側は態勢を立て直すこともできず、戦いは一方的なものだったといいます。
12月にはファシスト軍はカタロニア地方への攻撃を開始。
翌年の1939年1月末には大都市バルセロナがついにファシスト軍の攻撃に陥落いたします。
人民戦線政府の首脳や人民戦線側と行動を共にする人々は、冬のピレネー山脈を徒歩でフランスに落ちのびていきました。
2月には英仏がフランコの政権を承認し、人民戦線政権は崩壊。
スペインの政権はフランコにあると認められました。
3月、フランコは内戦の終結を目指し、マドリッド攻略に取り掛かります。
今回もマドリッド攻防戦は熾烈を極めるものの、ここにいたってもなお徹底抗戦をおこなおうとするスペイン共産党と戦意をなくしていたアナーキスト派による内紛が発生。
もはや統制の取れない状態の人民戦線側に勝ち目があろう筈がなく、3月28日にはついにマドリッドは陥落、人民戦線側の最後の砦も失われました。
3月30日にはフランコがマドリッドに入城。
4月1日をもってスペイン全土に内戦の終結が宣言されました。
ここに1936年から足掛け3年にわたってスペイン全土に吹き荒れた内戦は、ようやく終結を見たのでした。
内戦終結後もフランコは人民戦線側の残党を弾圧して行きました。
多くの人民戦線派の人々が投獄され、死刑になったといいます。
ある統計では、この内戦で60万人の死者が出たとされますが、そのうち戦死は10万人にしかならず、2万人が人民戦線側のテロにより、20万人がフランコ側のテロにより死亡し、空襲や内戦中の食糧事情の悪化で栄養不良により死んだ人などが6万人、そしてフランコ側に投降後病死や処刑などにより死んだ者が20万人だったとされてます。
バスク地方とカタロニア地方の自治権は取り上げられ、バスク語やカタロニア語も使用を禁じられました。
このような状況により、スペイン国外へ逃亡した人はかなりの数に上ったといいます。
スペインはこの後の第二次世界大戦や東西冷戦期を、フランコによる独裁政権で過ごします。
フランコはスペイン総統として独裁を行い、1975年に83歳でその生涯を閉じました。
彼は独裁者としての自分の後継者は作らず、かつての国王の孫であるフアン・カルロスを後継者に任命。
フアン・カルロスはフランコの遺言に従い、国王フアン・カルロス一世として即位。
そのため、フランコ没後はスペインは王政復古により王国へと変わります。
(ただし、国名はスペインとされ、スペイン王国という呼び方はしません)
フアン・カルロス一世はフランコの独裁路線を継承せず、スペインを民主化された立憲君主国へと導き、現在のスペインへと変えて行きました。
スペインはようやく近代化を終えたのです。
スペイン内戦 終
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参考文献
「スペイン内戦」 歴史群像2000年夏・秋号 学研
他
参考サイト
「Wikipedia スペイン内戦」
「Wikipedia フランシスコ・フランコ」
「Wikipedia 国際旅団」
「裏辺研究所 歴史研究所内ヨーロッパ史スペイン内戦」
「スペイン内戦とその影響 酒井 輝」
他
今回もお付き合いいただきましてありがとうございました。
資料の簡易的な引き写しですが、ある程度スペイン内戦のことを知っていただけましたなら幸いです。
- 2010/07/02(金) 21:27:27|
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