1836年3月6日早朝。
前日までの砲撃に引き続き、頃合いと見たメキシコ大統領サンタアナは、ついにメキシコ軍による総攻撃をアラモ砦に向けて開始します。
メキシコ軍は総兵力のうち約1500から1600人を四隊に分けて攻撃いたしました。
コス将軍率いる約400人は北西から、デュク大佐の約400人は北東から、ロメロ大佐の約400人は東から。
そしてモラレス大佐の約100人が南から攻撃を開始し、残りは予備隊として周囲の警戒に当たらせました。
メキシコ軍の総攻撃が行なわれる前日、2月23日からの包囲戦がいよいよ最終局面に迫ったと見たアラモ砦の指揮官ウィリアム・トラヴィスは、守備隊全員にこう言いました。
「自分はここに残って戦うが、諸君がここに残って戦うかどうかは諸君らの判断にゆだねる」
そして地面に線を引き、残留して戦うと決めた者はこの線を越えよと言ったともいわれます。
結果は一人を除いて全員が残留を希望し、病床に臥していたボウイ大佐は周りの者の手を借りるまでして線を越え、守備隊は最後まで戦うことを誓ったのでした。
しかし、戦闘は最初から守備隊側にとって不利でした。
メキシコ軍の持つマスケット銃に対し、守備隊側の持つライフル銃の射程や命中精度の差が、メキシコ軍を何度か後退させるものの、やはり圧倒的な兵力差が守備隊側に重くのしかかってきたのです。
さらに戦闘開始早々に、守備隊側を悲劇が襲っておりました。
北側からの攻撃に対して応戦中だった指揮官トラヴィスが、頭部にメキシコ軍の銃弾を受けて戦死していたのです。
守備隊側はそれでもなお防戦を続けますが、北西、北東、東側のメキシコ軍の三隊の攻撃を防ぎきれるものではなく、やがて各所で防壁が突破されました。
サンタアナはここで予備隊を投入し、一気にアラモ砦の制圧を目論みます。
破られた防壁からメキシコ軍は雪崩をうって砦に侵入し、内部では凄惨な白兵戦が繰り広げられることになりました。
病床にいたボウイ大佐はその場で殺され、デビー・クロケットも抵抗むなしく戦死いたします。
(クロケットに関しては捕らえられ処刑されたとも言われます)
メキシコ軍は捕獲した大砲を守備隊に向けて発射するなど、もはや一方的な虐殺になってしまった戦闘は、開始からわずか一時間半ほどで終結いたしました。
砦にいたほんのわずかの女性と子供、数人の奴隷だけが生き残り、守備隊は全滅いたしました。
アラモ砦は陥落したのです。
この戦いでは、テキサス側アラモ守備隊約180名が戦死。
一方のメキシコ軍は諸説ありますが、約400人ほどが戦死し、ほぼ同数ほどが負傷したといわれます。
メキシコ軍としても大きな損害だったといえるでしょう。
こうして「アラモの戦い」は終わりました。
サンタアナにとってはこしゃくなテキサス軍の拠点を一つ叩き潰すことができました。
一方でテキサス軍は、危惧したとおりアラモ砦を包囲され殲滅されてしまいました。
テキサス軍司令官ヒューストンは、アラモ砦を陥落させたメキシコ軍の圧力をどう受け止めるのか、苦心することになりました。
ですが、アラモ砦の陥落はテキサスの人々のみならず、アメリカにも衝撃を与えました。
テキサスやアメリカの人々は、最後まで勇敢に戦ったアラモの守備隊を英雄として祭り上げ、メキシコの暴虐を非難しました。
「アラモを忘れるな」は合言葉となり、人々を結集させたのです。
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- 2010/04/22(木) 21:41:15|
- アラモの戦い
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