少し間が開いてしまいましたが、アラモの戦いの6回目です。
サンアントニオ・デ・ベクサーに向かって、サンタアナ大統領自身がメキシコ軍を率いて進軍していた頃、テキサス軍はベクサーの町とアラモの砦とをどうするか、頭を悩ませておりました。
テキサス軍の前線からは突出したような形になっていたベクサーの町は、これから考えられるメキシコ軍の反抗に対し、包囲され孤立しやすいと思われたのです。
そこでテキサス軍司令官のサミュエル・ヒューストンは一人の人物に命令書を携えさせ、アラモ砦に派遣しました。
その命令書には、アラモ砦の破壊と放棄が記されていたといいます。
命令書を持たされたのは、「ジェームズ(ジム)・ボウイ」という大佐でした。
ボウイ大佐は、この時40歳にならんとしておりましたが、若いころから民兵に入ったり奴隷貿易を一時期おこなったりと荒々しい気性の持ち主として知られておりました。
特に狩猟用ナイフを愛用しており、彼はこのナイフで何度か決闘をおこなったりしておりました。
同型のナイフは彼の名前からボウイナイフと呼ばれ、今でもアメリカ人の間では使われる物となっています。
1836年1月、ボウイ大佐は30名の小部隊を率いてアラモ砦に到着します。
彼は砦の指揮官であるニール大佐に、ヒューストンからの命令書を渡しますが、一方でこのアラモ砦を重要拠点として保持するようにと要請したともいわれます。
ボウイは他人にあれこれ指図されるのがきらいな性格だったため、ヒューストンの元を離れて自分の考えで行動したいと思ったのかもしれません。
結局アラモ砦は破壊されることなく、逆に強化がなされます。
ボウイ大佐とその小部隊は、そのまま守備隊に加わることになり、さらに数週間のうちにあちこちからアラモを守ろうと義勇兵が集まってくることになりました。
その中には、ウィリアム・トラヴィス率いる30名の兵士もおりました。
最初トラヴィスは、テキサス軍の命令でサンアントニオ・デ・ベクサーに派遣されてきただけだったのですが、これは僻地に追いやられたと感じていたトラヴィスにとっては面白くないことでした。
そんな折、アラモ砦の指揮官ニール大佐から砦の防備に加わらないかとの申し出を受けたトラヴィスは、これをやりがいのあることと感じて守備隊に加わります。
2月8日には、今度はアメリカテネシー州の義勇兵を引き連れた元テネシー州議員「ディビッド(デビー)・クロケット」もアラモ守備隊に加わります。
1960年に作られました映画「アラモ」では、名優「ジョン・ウェイン」が演じましたデビー・クロケットは、今でもアメリカの国民的な英雄の一人ですが、三歳で熊退治をおこなったという逸話の持ち主であり、彼の名前を取った「クロケット帽」という毛皮でできていて尻尾が垂れ下がる格好の帽子を愛用しておりました。
原住民との戦いにも身を投じ、テネシー州の下院議員も勤めた彼は、サミュエル・ヒューストンと親交があったため、このたびのテキサス独立戦争にも参加することに決めたのです。
彼のつれてきたテネシー州義勇兵は、わずか12人ほどだったとも言われますが、人数の少ない守備隊には貴重な援軍であり、これでアラモ守備隊は140名ほどになりました。
この時点で、アラモ砦にはニール、ボウイ、クロケットと大佐の階級を持つものが三人、トラヴィスが中佐の階級を持つため、大佐中佐が合わせて四人という状況でした。
そんななか、家族の病気などの理由から、アラモ砦の指揮官であるニール大佐が砦を離れることになります。
これによりアラモ砦の後任指揮官を決める必要がでてきましたが、ここで選ばれたのは、なんと中佐であるウィリアム・トラヴィスでした。
しかし、この人選は周囲に不満をもたらします。
規律を重んじ厳格なトラヴィスは、当然兵からは好まれませんでした。
また、自分の好きなように行動したいボウイも、大佐である自分が中佐であるトラヴィスに従うのはいやだとばかりに、何度となく指揮権のことでトラヴィスと口論になりました。
こうしてニール大佐が離れてしまったアラモ砦では、指揮権が明確に定まらないという不安定な状態に陥ります。
そうしているうちにも、サンタアナ率いるメキシコ軍はコス将軍の残党などを加えて、再び約6000名ほどの戦力となっておりました。
2月21日ごろにはメキシコ軍の先遣隊がベクサーの町を望む位置にまでやってきていたのです。
攻守ところを替えたアラモ砦を巡る戦いが、刻一刻と迫っておりました。
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- 2010/04/20(火) 21:28:51|
- アラモの戦い
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