「ゴンザレスの戦い」に一応の勝利を収めた「テキサス軍」は、その余勢を駆ってコス将軍の率いるメキシコ軍のいるサンアントニオ・デ・ベクサーへと進軍いたします。
これに対しコス将軍は、ベクサーの町の守備を固め、自らは「アラモ」と呼ばれる伝道教会跡の石塀に囲まれた場所に司令部を置いて立て篭もりました。
1835年11月1日、テキサス軍はサンアントニオ川に到達し、ベクサーの町とアラモの砦を臨みます。
しかし、所詮は民兵の寄せ集めに過ぎないテキサス軍は、防御された町や砦に対する攻撃の仕方がわかりませんでした。
テキサス軍の指揮官の一人であるサミュエル・ヒューストンは、部隊の訓練に時間を費やすべきだと主張しましたが、当時テハス地区(以後テキサス)におけるテクシャンの政治的指導者だったステファン・オースチンはそれを退けます。
オースチンは町への攻撃を主張しましたが、今度は他の指揮官たちが難色を示しました。
結局テキサス軍はなし崩し的にベクサーの街を包囲するだけとなり、ただ時間だけが過ぎることになりました。
退屈な包囲戦は、テキサス軍の士気をがっくりと低下させました。
多くの志願兵が軍を抜け、指揮官も何人かが辞職していきました。
そんな中でオースチンはテキサス独立戦争の支援を得るためにアメリカに向かうこととなり、ベクサー包囲の指揮は副官のバールソン将軍が取ることになります。
テキサス軍とコス将軍指揮下のメキシコ軍は、ちょっとした小競り合いはあったものの、包囲戦が続いておりました。
冬が近づき、物資と士気の低下した軍ではこのまま包囲戦を続けることはできないと考えたバールソンは、一度軍を撤収させようと考えます。
しかし、ここまで包囲戦を続けてきたこともあり、多くの指揮官は撤収には反対しました。
中でもベンジャミン・ミラム大佐は撤収には強硬に反対し、彼に付き従う者たちをつれてベクサーの町を攻撃しようといたします。
テキサス軍と同様に包囲されたままのメキシコ軍の士気も大幅に低下していることを知ったバールソンは、ミラム大佐の意見を取り入れてここで一気にベクサーの町を攻撃することに決めました。
12月5日、ミラム大佐とジョンソン大佐の部隊がベクサーの町に突撃し、一軒一軒の家を奪い合う激戦を繰り広げます。
ミラム大佐はこの戦いで戦死してしまいますが、ジョンソン大佐が指揮を引き継ぎ、コス将軍以下のメキシコ軍はついにベクサーの町を放棄してアラモ砦に逃げ込むこととなりました。
12月9日、これ以上の戦闘は無理だと悟ったコス将軍は、テキサス軍に降伏を申し入れました。
バールソンはコス将軍と降伏についての話し合いを行い、大砲や武器を放棄する代わりに、メキシコ軍兵士を今後戦闘には参加しないとの約束の下でメキシコへと返しました。
これによってメキシコ軍は現在のメキシコとアメリカの国境であるリオグランデ川まで後退することになり、テキサス軍兵士は歓喜に沸きました。
メキシコ軍をテキサスから追い払ったことで、テクシャンたちはゴンザレスで会議を行い、ここにテキサス暫定政府が樹立します。
知事にはヘンリー・スミスが任命され、テキサス軍の指揮官にはサミュエル・ヒューストンが、そしてステファン・オースチンが外交を担当することになりました。
ただし、この暫定政府の目的は、あくまでもテキサスの分離独立を目指したものではなく、メキシコ中央政府に対しテキサス側の要望を通しやすくするためというものでした。
一方義理の弟のコス将軍が一敗地にまみれたことを知ったサンタアナ大統領は、ついに自らが軍勢を率いてテキサス奪回に向かうことにします。
メキシコ中部の「サンルイスポトシ」に集められたメキシコ軍は、総数約6000という大規模なものでした。
サンタアナは、自らこの軍勢を率いてテキサスへと向かったのです。
1836年の1月のことでした。
冬の行軍は難渋を極め、いく人もの脱落者を出しサンタアナ自身も病に倒れるなどしましたが、その後回復したサンタアナは、ついに2月12日にリオグランデ川に到達。
ここからベクサーまでは約10日ほどの距離でした。
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- 2010/04/15(木) 21:37:07|
- アラモの戦い
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