スペインからの独立を果たしたメキシコでしたが、それで万々歳というわけにはいきませんでした。
独立革命に功績のあったスペイン人の将軍「アグスティン・デ・イトゥルビデ」が、皇帝の名乗りをあげ「メキシコ帝国」を作り上げてしまったからです。
これはもともとはメキシコ独立に際し、新たな国王を欧州からもらおうということになっていたのですが、欧州の各王家はスペインに遠慮して国王となる人物を派遣しようとはしなかったのです。
そのためイトゥルビデが、自ら皇帝となることでメキシコをまとめようとしたのでした。
ですが、これはメキシコ人にとってはおもしろいものではありませんでした。
イトゥルビデはスペイン人であり、スペインの影響を排除できなかったため、メキシコ人にとってメキシコ帝国は真の独立とは思えなかったのです。
そのため、アグスティン一世を名乗ったイトゥルビデの政権はたちまち国民の信頼を失いました。
政権を維持しようとしたアグスティン一世は強圧的な手段でこれに望んだため、結局約一年半ほどしか皇帝の座にいることができず追放されてしまいます。
そんな中、一人のメキシコ人が国民の信望を集めていきます。
若くしてメキシコ帝国軍の准将にまで昇進した、「アントニオ・ロペス・デ・サンタアナ」という人物でした。
独立当時まだ27歳という若さだったサンタアナは、最初スペイン軍の一士官として独立派を鎮圧しておりましたが、途中で寝返りイトゥルビデの側近としてメキシコ独立に尽力します。
そしてメキシコ帝国の成立にも関わったあとで、今度はアグスティン一世の追放後もうまく立ち回り、政府に対して影響力を持ち続けることに成功しました。
こうして彼は一歩ずつ権力への階段を登り始めます。
1824年、新憲法(1824年憲法)が公布され、メキシコ帝国は「メキシコ共和国」へと生まれ変わります。
そしてこの1824年憲法が、テキサスの将来に大きな影響を及ぼすのでした。
この時テキサスは、隣接するコアウイラ地区と合併し、新たにコアウイラ・イ・テハス州という州になりました。
テハスがテキサス地区のことです。
これは現在のテキサス州とは違い、広い面積を持っておりました。
この広いコアウイラ・イ・テハス州をメキシコは開拓して価値ある土地にしようと考えます。
広大な土地を開拓するには開拓者が必要です。
この開拓者を、メキシコは隣国アメリカに求めたのでした。
入植者には広大な土地を与え、さらには十年間の租税免除という条件は、すぐに多くの開拓者を引き寄せました。
人数にもよりますが、一家族丸ごとですと約4000エーカーを越える土地が与えられるほどだったといいます。
ただしもちろん条件があり、入植者はカトリックへの改宗が義務付けられたほか、スペイン風の名前への変更や、当然ながらメキシコ共和国への忠誠も求められました。
それでも広大な土地所有という魅力は大きく、多くの申し込みが寄せられたのでした。
テハス(テキサス)地区には、こうして何人ものアメリカ人が移住してくるようになったのです。
1829年、スペインは再度メキシコの支配権を奪回するために軍勢を送り込みます。
しかし、サンタアナ率いるメキシコ軍が「タンピコの戦い」でこれを撃破。
スペインのメキシコ再支配の目論みは絶たれました。
この一件でサンタアナに対する国民の支持は爆発的に上昇し、ついに1833年の大統領選挙でサンタアナはメキシコの新大統領に就任します。
ところが、サンタアナはこれ以後1824年憲法を無視したような独裁路線を歩み始めます。
メキシコにはまだ民主主義の準備ができていないとし、民主的な政策を否定したばかりか、憲法廃止まで視野に入れ始めておりました。
ですが、民衆はまだ「英雄サンタアナ」に対する支持をやめようとはしませんでした。
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- 2010/04/12(月) 21:34:24|
- アラモの戦い
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