5月31日に主都市ポート・スタンレーを包囲した英軍でしたが、このまま総攻撃を行なうわけにはいきませんでした。
街には住民が残っており、人質的な扱いを受けることも予想されたからです。
冬の訪れという時間との勝負ではありましたが、ここはしっかりと準備をしてから攻撃をする必要がありました。
6月1日。
英国政府はポート・ダーウィン及びグースグリーン飛行場の陥落とポート・スタンレーが包囲下にあることで、アルゼンチン政府に対してフォークランド諸島からのアルゼンチン軍の撤退を勧告します。
この英国側の勧告に対し、アルゼンチン政府は当時のソ連を中心とした東側諸国からの援助も受け入れると表明し、あくまでも徹底抗戦をするつもりであることを表しました。
しかし、東側諸国からの援助らしい援助はありませんでした。
この東側諸国、特にソ連がアルゼンチンへの援助に及び腰だったのは、日本との間に北方領土問題を抱えているため、下手に藪を突付きたくないという思惑が働いたものだったといわれます。
また、アルゼンチン側からすると、北方領土問題を持つ日本はフォークランド諸島を奪回しようとするアルゼンチンを必ず支援してくれるだろうという思いがあったといわれ、日本が終止英国寄りだったことに落胆して、アルゼンチン在住の日系人が心無い行為を受けるということもあったといいます。
6月7日。
アルゼンチン政府は国連の撤兵提案も拒否。
英国はこの間にも着々とポート・スタンレーへの攻撃態勢を固めつつありました。
6月8日。
ついに英国には待望の増援が到着します。
豪華客船クィーンエリザベス二世で陸軍第五歩兵旅団が到着したのです。
すぐに揚陸の手はずが整えられ、ポート・スタンレー南西の漁村フィッツロイに上陸することになりました。
この英軍によるフィッツロイ上陸作戦は、ただちにアルゼンチン軍の知るところとなり、揚陸作業中の英軍艦艇に対する航空攻撃がすぐさま行なわれます。
この攻撃もまた熾烈を極め、ミラージュ戦闘機の投下した爆弾が12型フリゲート「プリマス」に命中。
爆弾はこれまた不発だったにもかかわらず、搭載していた魚雷が炎上。
「プリマス」は大破いたしますが、かろうじて沈没はまぬがれました。
またアルゼンチン軍のA-4スカイホークが投下した爆弾は揚陸艦「サー・ガラハド」を直撃。
「サー・ガラハド」は耐え切れずに沈没します。
他にも揚陸艦「サー・トリストラム」が攻撃によって大破。
揚陸艇一隻が沈没するという大損害を英軍はこうむります。
空中警戒機を持たない英軍艦隊の脆弱さがまたしても表面化したのでした。
一方攻撃を仕掛けたアルゼンチン軍機も、シーハリアーによって三機が撃墜されます。
この紛争において、シーハリアーはついに空中戦では一気の損失も出しませんでした。
(事故や対空砲火では落ちています)
大損害をこうむった英軍でしたが、それでも攻撃準備は進められました。
「アトランティック・コンベア」喪失による輸送ヘリの数の少なさや、「サー・ガラハド」の喪失による物資の少なさなどもあり、攻撃準備は遅々とはしておりましたが、6月11日にはどうにか攻撃態勢を整えることができました。
6月11日午後9時ごろ、ポート・スタンレー南東沖合いの英国艦隊から、いっせいに対地上砲撃が開始されました。
主都市ポート・スタンレー攻撃の開始でした。
紛争は最終局面を迎えることになったのです。
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- 2010/01/28(木) 21:35:03|
- フォークランド紛争
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