1982年5月27日。
英軍陸上部隊司令官ムーア少将はポート・ダーウィンへの攻撃を開始します。
攻撃の主力は第三海兵旅団第42大隊と空挺第2大隊の二個大隊でした。
アルゼンチン軍の前衛陣地を海兵第42大隊が突破したのち、空挺第2大隊は数少ない輸送ヘリを使って夜間にポート・ダーウィンの背後に進出、街を包囲することに成功しました。
翌28日早朝、英軍は空挺第2大隊を中心に砲撃と攻撃ヘリの支援を受けつつ街への攻撃を行ないました。
街への攻撃は順当に進捗し、ポート・ダーウィンの街そのものは程なく英軍の占領するところとなりました。
ポート・ダーウィン占領の余勢を駆ってグースグリーン飛行場に対する攻撃も開始する英軍でしたが、アルゼンチン軍はグースグリーン飛行場にはポート・ダーウィンとは比べ物にならないほどの防御態勢を敷いておりました。
フォークランド諸島防衛司令官であるメナンデス少将は、グースグリーン飛行場の保持が重要であるとして守備態勢を固めていたのです。
英軍空挺第2大隊はたちまちのうちに大きな損害を受け、大隊長であるジョーンズ中佐も戦死してしまいます。
しかし、ここで攻撃の手を緩めるわけにはいきません。
ムーア少将は攻撃の続行を指示。
英軍は損害をこうむりながらもグースグリーン飛行場へと迫りました。
フォークランド諸島に配置されていたアルゼンチン軍兵士たちは、主に徴兵で集められた徴集兵が主でした。
新兵とそれほど変わりがないと言っていい徴集兵は、やはり戦闘には不慣れでした。
一方英軍の中核は空挺第2大隊です。
志願兵で構成された戦闘のプロフェッショナルの集団であり、そこに大きな違いがありました。
数で勝るアルゼンチン軍でしたが、プロフェッショナルである英軍がじょじょにその実力を発揮してくるに伴い、戦場の支配権を喪失していきます。
激戦ではありましたが、アルゼンチン軍の徴集兵たちにその激戦を耐え抜く力はありませんでした。
28日の午後9時ごろに至りグースグリーン飛行場はついに英軍の占領下に置かれます。
アルゼンチン軍はもはや戦闘を支えることができず、約千四百名もの兵士たちが投降いたしました。
この「グースグリーンの戦い」は、フォークランド紛争中で最大の激戦であり、英軍アルゼンチン軍双方に大きな損害が出た戦いでした。
英軍は五十名ほどの死傷者を出し、アルゼンチン軍も約二百五十名ほどが死傷したのです。
参加した人数の規模で言えば、損害としては大きいものでした。
ポート・ダーウィンとグースグリーン飛行場を激戦の末に確保した英軍は、残る最重要地点である主要都市ポート・スタンレーの攻略に全力を向けることになりました。
これに対しアルゼンチン軍は、小規模の空挺作戦を行なって英軍の後方かく乱を図ろうとしましたが、降下した兵士たちが潜伏中に発見されて失敗に終わりました。
英軍はポート・スタンレー周辺の山々を制圧して街を包囲下に置こうと部隊を進めます。
5月31日、ポート・スタンレー西方のケント山を英軍が確保。
程なくその南東にあるツーシスターズ山も確保し、西側からポート・スタンレーを見下ろせる状態となりました。
これによってポート・スタンレーはほぼ包囲態勢となり、アルゼンチン軍には時間を稼ぐことでの英軍の消耗を待つしかほぼ手が無くなりました。
しかし、戦争はまだ続きます。
(12)へ
- 2010/01/26(火) 21:20:10|
- フォークランド紛争
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0