1982年4月5日。
英国本土ポーツマス港では、英国国旗の小旗を振る大勢の市民が見送る中、第二次世界大戦以来ともいえる大規模艦隊が出港して行きました。
艦隊の中核は二隻の航空母艦、「ハーミーズ」と「インヴィンシブル」でした。
そしてそれを護衛する中小の駆逐艦やフリゲートが周りを囲み、そのほかに1500名の海兵コマンドを載せた揚陸艦も加わっておりました。
それはまさに、これから戦場へと赴く英国の一大機動部隊でした。
艦隊の行き先ははるかかなたの南大西洋。
南米大陸の沖合いに浮かぶフォークランド諸島(アルゼンチン名マルビナス諸島)でした。
英国が領有権を主張するこの島々に、同じく領有権を主張するアルゼンチンが軍を派遣。
わずか二日前に島々を占領していたのです。
英国艦隊は、このフォークランド諸島の奪回が目的でした。
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フォークランド諸島(アルゼンチン名ではマルビナス諸島ですが、日本での通りのよさにあわせてフォークランド諸島で通すことにします)は十六世紀に欧州文明に触れることになりました。
スペイン及びアルゼンチンでは、この諸島は1520年にスペイン人によって“発見”されたとされておりますが、英国では1592年に英国人ディヴィスが“発見”したとされており、もともとその発見時点から食い違っておりました。
のちに英国はこの英国人の発見の事実をもとに領有権の正当性を主張することになりますが、1690年になってこの諸島を時の海軍会計局長官にちなみ「フォークランド」と命名いたしました。
しかし、南大西洋のさらに南端に近いようなフォークランド諸島の位置は、年間平均気温が摂氏6度ほどと寒いうえに強風が吹きすさぶ悪環境をもたらしておりました。
そのため英国も特にこの諸島に関心を払うことはなく、フランスといっしょに植民地を作ってはみたものの、周辺での漁業ぐらいしか産業と呼べるものはありませんでした。
一方南米大陸に植民地を持つスペインは、当然のことにこのフォークランド諸島にも関心を示し、英仏両国に圧力をかけました。
さしたる産業もないこの諸島にそれほどの関心のなかった英仏両国は程なく撤退。
この時点で諸島の支配権はスペインが持つことになります。
1816年、スペインよりアルゼンチンが独立すると、フォークランド諸島の領有権も同時に引き継いだと主張。
諸島に総督を派遣して支配を固めました。
ですが19世紀に入り、南米南端のホーン岬経由の航路の重要性が増してくると、当時世界最大の海軍力を誇り海洋の覇者となっていた英国には、フォークランド諸島の存在する位置がきわめて重要になって来ました。
フォークランド諸島に英国海軍の拠点を持つことができれば、そこからホーン岬経由の航路に影響力を及ぼすことが可能なのです。
1833年、英国はフォークランド諸島の支配権を実力行使で奪い取ります。
二隻の軍艦を派遣し、フォークランドを占領したのです。
そして1842年にはフォークランド諸島を英国植民地とすることを宣言。
この英国の行動に対しアルゼンチンは無論抗議しましたが、ウルグアイでの内戦との関係や重要輸出先である英国との関係悪化を恐れ、あまり強硬なことはできませんでした。
経済的に重要なパートナーである英国と対立することは、アルゼンチンにはできなかったのです。
フォークランド諸島の領有権は、明確に定まらぬままに百五十年の月日が流れることになるのでした。
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- 2010/01/02(土) 21:14:55|
- フォークランド紛争
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新年のご挨拶がおくれました。
年増の柏木にとって、この紛争はまだ記憶に新しいところです。
機動部隊というとどうしてもアメリカ空母って思ってしまうので、
このときには「イギリスにも機動部隊はあるんだなー。世界第三位の海軍だもんなー」という程度の、失礼な認識しかありませんでした。
領有権って難しいですね。
どちらにも言い分があるから、いつまでたってもくすぶり続けるんですね。
呪縛のような恐ろしさを覚えます。
- 2010/01/03(日) 07:37:21 |
- URL |
- 柏木 #D3iKJCD6
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>>柏木様
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくです。
この戦いは私もリアルタイムで知っている戦いですよー。
結構大規模な戦いでしたよね。
今後記事中でも触れますが、アルゼンチンは北方領土問題を持つ日本は支援してくれると考えていたらしいですね。
- 2010/01/03(日) 21:43:44 |
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- 舞方雅人 #-
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