パラグアイのソラーノ・ロペス大統領と三国同盟軍司令官ミトレとの間に和平交渉が行われている間にも、次の戦いへの布石は行なわれておりました。
三国同盟軍は1866年9月初旬には、パラグアイ軍2500の守るパラグアイ川に面するクルス砲台を約1万4千の兵力で攻撃。
この時ブラジル河川艦隊の新鋭戦闘艦「リオ・デ・ジャネイロ」が、仕掛けられていた機雷に触れて沈没するという痛手をこうむったものの、クルス砲台を占領します。
下旬にはクルス砲台の上流側にあるクルパイティ砲台を2万の兵力で攻撃。
しかし、クルパイティ砲台は和平会談の間に防御が強化されており、三国同盟軍はここで手痛い敗北を喫します。
約9千もの死傷者を出しながらクルパイティ砲台を占領できず、三国同盟軍は後退せざるを得ませんでした。
これに対しパラグアイ軍の戦死者はなんとたったの50人ほどだったといわれます。
この大敗北に三国同盟側では司令官が交代します。
アルゼンチンのバルトロメ・ミトレに代わり、ブラジルのカシアス公爵が三国同盟軍の司令官になったのです。
この交代劇にはアルゼンチンの国内事情が関わっておりました。
ソラーノ・ロペス大統領が望んでいたアルゼンチンの国内暴動が起こったのです。
クルパイティ砲台攻撃の失敗で大損害を出したことにより、アルゼンチンではこの戦争に反対する反対派が国内で暴動を起こし始めました。
もともとブエノスアイレスを中心とする中央集権派と各州の地方分権派との対立に、今回の三国同盟戦争の賛成反対が絡み合い、アルゼンチンの内部分裂が表面化したのです。
今回もウルキーサは立ち上がりませんでしたが、ウルキーサの代わりに各州のカウディージョ(人名ではなく地方の政治軍事を掌握した指導者のこと)が立ち上がります。
中でもカタマルカ州のフェリペ・バレーラが中心となり、政府に対抗したのでした。
これに対しアルゼンチンはその軍事力を国内に振り向けざるを得ませんでした。
ソラーノ・ロペス大統領が望んだとおり、以後アルゼンチン軍は三国同盟軍から大きく兵力を撤収することになります。
しかし、長引く戦争はパラグアイを急速に疲弊させていきました。
物資不足が深刻化し、ついに金属供出運動が始まります。
各家庭などから金属を集め、それで大砲を作ったり、敵弾を回収して再生して使うなど、日本の太平洋戦争末期のような状況が現れ始めておりました。
また薬草を集めて医薬品を作ったり、士気高揚のための勲章を各家庭の婦人から集めた宝石で作るなども行なわれたといいます。
一年以上のにらみ合いが続き、1868年2月ごろには三国同盟軍約5万に対し、パラグアイ軍は約1万5千にまで低下しておりました。
この頃三国同盟の一角ウルグアイでも状況が変わります。
ブランコ党から政権を奪取したコロラド党党首のフローレスでしたが、ブランコ党は息の根を止められたわけではなく、再びコロラド党との激しい内戦が起こっておりました。
2月19日には、コロラド党党首フローレスとブランコ党党首ベロが二人とも同じ日に暗殺されるというすさまじさで、ウルグアイはパラグアイとの戦争どころではなくなったのです。
同盟関係の維持からアルゼンチンもウルグアイもパラグアイとの単独講和にはいたりませんでしたが、以後三国同盟軍の中心はブラジル軍へと移行します。
三国同盟戦争はほぼパラグアイ-ブラジル戦争となりました。
アルゼンチンとウルグアイの兵力が少なくなったとはいえ、パラグアイにとっては戦争はきびしい状況のままでした。
同じく2月、ブラジル軍はパラグアイ川ににらみを利かせるパラグアイの重要拠点ウマイタ要塞に対し攻撃を仕掛けます。
河川戦闘艦艇など四十三隻もの艦隊で攻撃するブラジル軍に対し、ウマイタ要塞も必死に防戦を行いブラジル軍を寄せ付けません。
ですが、この戦闘の最中にブラジル軍の河川戦闘艦が三隻、ウマイタ要塞をすり抜けてパラグアイ川をさかのぼります。
この三隻はパラグアイ川岸にあるパラグアイの首都アスンシオンにまでさかのぼり、アスンシオンを砲撃しました。
パラグアイ軍はカヌーで決死隊を送りますが、ブラジル艦には歯が立たず、かえって大きな損害を出してしまいます。
ブラジル艦は砲撃を終えると悠々とパラグアイ川を下って行きました。
このアスンシオン砲撃はソラーノ・ロペス大統領を愕然とさせました。
前線で軍の指揮を取っていた彼は、ただちにアスンシオンの市民と政府を疎開させることを決します。
24時間以内の疎開を命じられたアスンシオン市民は、取るものもとりあえず移動するしかなく、多くは着の身着のままでした。
アスンシオンの東にあるルーケという町に避難した政府と住民は、多くが野外生活を余儀なくされました。
あくまでも戦争を続けるソラーノ・ロペス大統領に対し、パラグアイ内部でも反戦の活動が起こり始めておりました。
しかし、それらの活動はすぐにソラーノ・ロペス大統領の知るところとなり、反戦運動に関わった人々は多くが捕らえられてしまいます。
処刑された人の数だけでも368人といわれ、その中にはソラーノ・ロペス大統領の弟や、二人の義弟までもが含まれておりました。
1868年7月。
一年以上にわたって抵抗してきた重要拠点ウマイタ要塞が、物資欠乏のためについにクルパイティ砲台とともに三国同盟軍に降伏します。
パラグアイ川の門は開きました。
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- 2009/11/16(月) 21:39:22|
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