第一次大戦後の軍縮や世界恐慌の中、列強各国陸軍はコストの安い豆戦車を配備して軍の機械化を図ろうといたしました。
そんな中でもてはやされたのが、機関銃一丁を装甲車体に搭載したカーデン・ロイド社の豆戦車でした。
カーデン・ロイド社はこの豆戦車系列を何種類か作りますが、そのうちの一つに水陸両用型のD-12というタイプがありました。
主に渡河や沼沢地のような地形で使うためのもので、箱型の車体に機関銃を搭載した銃塔を搭載しておりました。
第一次大戦中のロシア革命によって成立したソ連は、内戦によって疲弊した国力を1920年代いっぱいかけて回復させてきました。
そして当然のごとく軍の強化の一環として機械化を進めていくことになりますが、そのときに目に付いたのがこのカーデン・ロイド系列の豆戦車でした。
そこでソ連はカーデン・ロイド社に二種類の豆戦車を発注しますが、そのうちの一種がこの水陸両用タイプのD-12でした。
D-12は1931年に八輌が購入され、すぐに実用試験と国内生産に向けたデータの収集が行なわれます。
そして早くも翌年の1932年には、ほぼ丸ごとD-12をコピーしたT-33水陸両用戦車が作られました。
これはD-12自体がフォードのトラック用エンジンを流用しているなど生産しやすいものであったうえ、そのフォードのエンジンをソ連でもライセンス生産していたので、一からエンジンを作ったりする必要がなかったからでした。
完成したT-33はすぐに実用試験に供されましたが、残念なことにここで不都合が生じてしまいます。
D-12を模した足回りが河岸などの軟弱な地盤ではうまく機能しないことがわかったのです。
また、操縦手と銃手が前後に並ぶ形の車内配置も操作がしづらいということが判明しました。
これはもともとのD-12でも同様の不都合だったと思うのですが、当時のソ連はT-33を作るまで気が付かなかったのでしょうか。
そこでN・A・アストロフ技師はこの欠点を改良するため、足回りをリーフスプリングからコイルスプリングに変え、銃塔の位置も変更して操縦手と銃手が並列に並ぶようにしました。
こうして改良されたT-33は、T-37として正式に採用されました。
その後すぐに水上での安定性を増すために、車体を延長したT-37Aが作られ、以後こちらが量産されていきます。
T-37はD-12と同じようには小型の車体を持ち、車体の左右にフロート用にバルサ材をトタン板で覆ったものをフェンダーとして取り付け、車体の後ろにはスクリューと舵が付いておりました。
波のある海上などでは無理でしたでしょうが、沼や湖、穏やかな流れの川などでは充分に水上航行が可能でした。
ただ、装甲厚は薄く、最大でも10ミリに満たないものでしたし、武装も銃塔に一丁の機関銃だけでしたので、第二次世界大戦ではそれほどの戦力とはなりえませんでした。
フィンランドとの冬戦争でも、日本/満州国とのノモンハン事件でも、その水上航行能力を活かして敵の後方に回り込むなど活躍もしたようですが、反面装甲の薄さや武装の貧弱さで損害も多かったようです。
それでもT-37/T-37Aは2600輌ほども製造され、ソ連軍の機械化に貢献いたしました。
この数は、当時世界で一番量産された水陸両用戦車だったということです。
それではまた。
- 2009/10/21(水) 21:21:21|
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