可愛(えの)岳を突破した薩軍残存部隊は、8月21日に三田井に到達。
翌22日には三田井を出発、鹿児島へと向かいました。
この時点で桐野利秋は官軍による包囲が厳重であることなどから、再度熊本へ進出して熊本城の奪取という策を進言します。
しかし、この進言は西郷によって却下され、薩軍残存部隊は鹿児島へと向かったのでした。
とはいえ真っ直ぐに鹿児島へ向かったのではなく、九州中南部の山々を渡り歩き、あるときは流言を流し、あるときは部隊を分けて行軍し、またあるときはもと来た道を引き返すなどして行動の秘匿に努めました。
そのかいあってこの時点で官軍は薩軍残存部隊を完全に見失っており、官軍は部隊の分散を余儀なくされたばかりか、振り回されるばかりでした。
官軍の小部隊は、ときどきにおいて薩軍残存部隊と遭遇はするものの、少数精鋭となっていた薩軍残存部隊を補足するまでにはいたらなかったのです。
薩軍残存部隊はこうした行動を取りながらも、じょじょに鹿児島へと近づきました。
一週間の彷徨のあと、8月28日には霧島山の北にある小林という町に到達した薩軍残存部隊は、小林の警察屯所を襲撃し、さらに霧島山をかすめるように南下して29日には横川という町に達します。
ここから先は、さらに南下して加治木という町を抜ければ、鹿児島はすぐでした。
ですが、ここでようやく官軍の部隊が薩軍を阻みます。
延岡から急遽船で移動してきた第二旅団が、加治木に上陸して薩軍の前に立ちはだかったのです。
薩軍残存部隊は少数精鋭とはなっていたものの、やはり官軍の正規部隊と戦うには数が少なすぎました。
数度の交戦ののち、官軍を突破することはできないと判断した薩軍残存部隊は、加治木進出をあきらめ有川から蒲生へと迂回します。
鹿児島にはこの時点で第二旅団の一部と新撰旅団、それに警視隊約二百名がおりましたが、薩軍残存部隊に対するため、第二旅団の一部から三個中隊、新撰旅団から一個大隊を引き抜くなどして兵力が低下しておりました。
そのため、残存兵力では鹿児島市街全体を守ることは難しいと考え、いざというときには県庁近くにある米倉に篭って戦うこととされておりました。
明治10年(1877年)9月1日。
薩軍残存部隊は蒲生から街道を南下し、鹿児島市街へ向かいます。
途中官軍の迎撃を受け、ここでも足止めをされてしまいますが、辺見十郎太の機転によってここでも迂回行動を取ることにより城山から鹿児島市街へと入りました。
可愛岳突破より約半月、2月中旬の鹿児島出兵から半年以上が経過した中で、ようやく西郷隆盛ら薩軍将兵は鹿児島に戻ってきたのです。
鹿児島市外に戻ってきた薩軍残存部隊は、すぐさま市街の制圧に乗り出しました。
まず辺見率いる部隊が、私学校に駐屯していた官軍新撰旅団の輜重隊約二百名を攻撃。
輜重隊はなすすべなく米倉へと後退しました。
西郷の帰還は鹿児島市民にも歓迎され、鹿児島市街はすぐに薩軍残存部隊に協力する態勢となったため、官軍はやむなく予定通り米倉へと集結し、ここで篭城する形となりました。
この時米倉には、米八百石と薪炭数千貫が備蓄されていたと伝えられます。
9月2日、薩軍残存部隊は鹿児島市街を見下ろす城山に大砲を設置し、米倉に篭る官軍に対して砲撃を加えます。
この砲撃で官軍部隊は大いに苦しめられてしまいますが、残念ながら陥落させるまでにはいたりませんでした。
翌9月3日には官軍も増援を鹿児島市街に投入します。
別働第一旅団が鹿児島に上陸し、第二旅団も陸路鹿児島市街に到達して、米倉にいる官軍の救出をはかりました。
薩軍残存部隊にこれを妨害する力はなく、官軍は米倉に篭る部隊との連絡に成功。
薩軍残存部隊は城山へと撤収しました。
城山に後退した薩軍残存部隊でしたが、戦意は変わらず高いものがありました。
薩軍の貴島清は官軍の態勢が整う前に米倉を奪取すべきと訴え、桐野もそれに賛同します。
9月4日午前3時、貴島率いる決死隊約百名が、二隊に分かれて米倉を襲撃します。
決死隊は抜刀突撃を行い、官軍の兵士と壮絶な白兵戦を繰り広げますが、駆けつけた第二旅団に圧倒され、ほぼ全滅の憂き目を見てしまいます。
貴島清自身も白兵戦によって戦死。
薩軍残存部隊は城山に押し込められる形になってしまいました。
9月1日から始まった「米倉の戦い」はこれで終了。
いよいよ薩軍最後の戦い、「城山の戦い」が始まります。
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- 2009/10/14(水) 21:13:49|
- 西南戦争
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