西郷隆盛の直接命令を受け、豊後(大分)方面に進出するべく進発した野村忍助の奇兵隊(薩軍の部隊名称)ほか約二千五百は、4月30日に延岡に入りました。
そしてこの延岡を策源地とした野村は、弾薬製造をはじめるなどし、部隊を各地区に展開させて態勢を整えます。
5月10日、豊後攻撃に八個中隊約千八百を投入することにした野村は、先発として半分の四個中隊を出発させます。
先発した四個中隊は、12日には重岡、13日には豊後竹田に侵入し、警察署や裁判所、役所などを破壊します。
翌日には後続の四個中隊も豊後竹田に到着し、ここで大分へ向かう選抜隊を編成しました。
5月16日、薩軍は選抜隊百十名をもって大分へ進撃しますが、大分は警備が固く選抜隊での攻撃は不可能となったため、大分東方の鶴崎へと向かいました。
鶴崎へは選抜隊の先行部隊十五名が突入しましたが、そこではまさに官軍の警視隊が上陸をしている最中でした。
薩軍十五名はこの警視隊に攻撃を仕掛け、数十名に及ぶ損害を与えましたが、多勢に無勢であり、警視隊の反撃を受けてやがて退却を余儀なくされてしまいます。
この鶴崎こそ、薩軍が到達した最北端でした。
一方、薩軍の豊後侵入を知った官軍本営では、ただちに対応のための部隊を派遣することにいたします。
熊本鎮台、第一旅団、別働第一旅団それぞれから部隊を引き抜き、熊本からは陸路で、鹿児島にいた別働第一旅団からの部隊は海路で豊後へと向かいます。
豊後に入った官軍は、薩軍の占領下にあった豊後竹田へと向かいました。
大分攻撃に失敗した薩軍は、豊後竹田に孤立したような状況に置かれ、延岡の野村に救援を求めます。
野村は二個中隊を救援に差し向けますが、官軍との激戦の末に、5月29日に豊後竹田は官軍の手に落ちました。
6月1日、この日は人吉が陥落した日でしたが、野村は逆に豊後竹田から後退してきた部隊とあわせて三方から臼杵を攻撃、占領します。
官軍はただちにこれに反応し、海軍の軍艦「日進」、「浅間」の二隻の艦砲射撃も加わり、臼杵を攻撃いたします。
薩軍はよくこれを迎え撃ち、6月10日まで臼杵を保持したのちに後退。
追う官軍を相手に巧みな撤退戦を行ないながら、熊田まで後退します。
6月22日には野村率いる奇兵隊の残りの隊も熊田に移動し、以後ここを拠点として各地に遊撃戦を展開。
官軍をさんざんに悩ませながら、8月中旬までの約二ヶ月間ここを守り抜きました。
野村率いる奇兵隊は、西郷の直接命令で豊後に進出いたしました。
野村の考えとしては、豊後から四国さらには本州と連絡を付けることが目的ではありましたが、その目的は達せられませんでした。
その意味では奇兵隊の行動は失敗だったといえるかもしれません。
しかし、おそらくは西郷も野村もその目的は最初から達成不可能と見ており、むしろ官軍の兵力を豊後にひきつけてかく乱することを目的としていたと思われ、その目的は充分に達成されたといえるでしょう。
敗戦続きの薩軍の中でも、この野村の行動は大きく評価されるものとなったのです。
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- 2009/09/25(金) 21:41:12|
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