「城東会戦」は官軍の勝利に終わりました。
薩軍は木山を放棄して矢部浜町まで後退し、そこで集結後爾後についての軍議を開きます。
そして大きな方向転換を行なうことに決めました。
薩軍はこれまでの目的であった政府への問責のために中央へ向かうという方針から、官軍との持久戦を意味する三州盤踞(ばんきょ:根を張って動かないこと、その地方一帯に勢力を張ること)の態勢を取ることにしたのです。
この三州とは、薩摩、大隈、日向の三つの地方であり、鹿児島県と宮崎県を押さえて官軍と対峙し、機を見て再度攻勢に転じようというものでした。
そして、その拠点となる場所を人吉に定めたのです。
さらに薩軍は部隊編成を大幅に改めました。
今までの小隊を基本とした大隊から中隊を基本とした大隊へと編成を改め、今までの大隊長を本営付きとして首脳部を集中。
各大隊はこれまでの戦いで頭角を現してきた中堅クラスの有望な者に任せることにしたのです。
また、味気ない番号ではなく、“振武”“雷撃”“勇義”などの勇壮な名称を大隊名として士気の向上に努めました。
しかし、中隊に編成したと言っても各地の戦いで兵力は減少しており、各中隊とも百名程度の兵力しかなかったといいます。
また武器弾薬ともに不足しており、実際の戦力としては心もとないものでありました。
こうして部隊を九個大隊に再編成した薩軍は、4月22日には人吉へ向けて進発します。
ですが、平野部には官軍が布陣している以上人吉へ向かうルートは山越えの険しいルートに限られており、行軍には困難が予想されました。
先発したのは西郷隆盛と村田新八、池上四郎などが率いる約二千の兵力でした。
彼らは椎葉山系の胡麻山越えのルートを通り、翌日に出発した桐野利秋率いる主力を含む残りの兵力は、西寄りの那須越えのルートで人吉へと向かいました。
4月とはいえ山々の間を抜ける峠越えは寒さと険しさとの戦いでした。
薩軍は悪戦苦闘しながらも一歩一歩峠を越え、人吉へと向かいます。
党薩隊の一部には女性や子供もいたといわれ、かなり難儀な山越えだったと思われます。
4月27日、先に出発した西郷以下の薩軍がどうにか人吉に到着します。
また翌28日には桐野以下の薩軍も山を越え、人吉北東の江代という地に布陣しました。
西郷は桐野に対して人吉にて合流するように申し入れましたが、桐野はこれを固辞して江代にとどまります。
これは追撃してくる可能性のある官軍に備えてのものだったとも、これまで敗戦続きで西郷に顔を合わせられなかったのだともいわれます。
おそらくその両方であったことでしょう。
この頃から桐野と西郷はうまく行かなくなりはじめておりました。
人吉に到着した薩軍を人吉の人々は温かく迎えました。
人吉は党薩隊の一隊を出していたこともあり、薩軍に協力的だったのです。
薩軍は久しぶりにゆっくりすることができました。
4月28日、薩軍は桐野が到着した江代で幹部が集まり軍議を開きます。
ここであらためて人吉を中心にして持久戦を行なうことが確認され、部隊の配置も決定されました。
部隊は球磨盆地の入り口にそれぞれ配置され、盆地を囲む山々を天然の防壁として立て篭もり、大分や鹿児島方面で官軍を牽制しながら兵力と物資を蓄えるというものでした。
薩軍幹部の中には、この態勢なら二年は戦えると豪語するものもあり、その間には土佐などで反政府勢力が立ち上がるだろうと淡い期待を寄せていたのです。
薩軍はこの軍議に基づき、人吉で人口調査を行ないます。
そしてそれによって兵を集め、徴税を行い物資を調達しました。
また人吉城に弾薬製造施設を置き、弾薬製造にも努めました。
この弾薬製造施設の能力は、日産二千発ほどだったといわれます。
つかの間の平穏な時間を過ごした薩軍でしたが、引き締めも行なわれました。
軍令が発せられ、戦場での逃亡や兵士としての本分を尽くさぬものは切腹といったきびしいものとなりました。
薩軍内部に士気崩壊の予兆が起こり始めていたのでした。
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- 2009/09/19(土) 21:14:01|
- 西南戦争
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