熊本城の包囲は崩れました。
52日間に及ぶ包囲戦についに耐え抜いたのです。
落城前に熊本城を救出しなければならなかった官軍にとって、これは勝利でした。
薩軍はついに熊本城を落とすことができませんでした。
官軍に包囲を破られた薩軍は、4月14日及び15日にかけて各所で後退していきます。
西郷隆盛も薩軍本営とともに健軍方面へと向かいました。
熊本城を落とせなかったとはいえ、薩軍はまだこの戦争をあきらめたわけではありませんでした。
新たな戦線を構築し、場合によっては熊本への再侵攻も視野に入れていたのです。
後退による混乱を早期に収束させた薩軍は、白川と木山川によって形成された肥後平野東側の扇状台地に部隊を展開。
本営を木山において官軍を迎え撃つ態勢を整えます。
この時点で薩軍兵力は党薩諸隊も含め約八千人。
北から大津の野村忍助隊、長嶺の貴島清隊、保田窪の中島健彦隊、健軍の河野主一郎隊、御船の坂元仲平隊と西に向かって半円状に布陣し、官軍と対峙することになりました。
一方これに対して官軍も薩軍に対峙するように部隊を展開。
こちらは衝背軍と熊本城にいた熊本鎮台兵が合流したため、10個旅団約三万人という大兵力になっておりました。
明治10年(1877年)4月19日早朝。
官軍の熊本鎮台兵と別働第五旅団(新編成)及び別動第二旅団が連携して健軍方面の薩軍を攻撃。
薩軍は最初党薩隊の一つ延岡隊が応戦し、その後河野主一郎率いる部隊が加わって官軍を抑えます。
官軍はここでも防御する薩軍に苦戦し、何度も援軍を仰ぎますが、終始薩軍の防御を抜くことはできず、逆に薩軍の逆襲に追い立てられる状況でした。
翌20日。
官軍は全域で薩軍に対し攻撃を開始。
北の大津へは第一、第二、第三旅団が攻撃を仕掛けますが、野村忍助の薩軍がこれをよく持ちこたえ、互角の戦いを繰り広げます。
健軍方面で戦った別働第五旅団は、20日は保田窪方面へと向かいました。
こちらでは一時薩軍の防衛線を切り崩すも、中島健彦率いる薩軍の逆襲で旅団左翼を突破されてしまい、背後に回られてしまうという状況に陥ります。
腹背に敵を受けた別働第五旅団は包囲の危険をどうにか防いだものの、夜になっても右翼側に位置する熊本鎮台兵と連絡が取れないままでした。
保田窪での中島隊の逆襲により別働第五旅団の左翼が崩壊したことで、長嶺地区にいた薩軍貴島隊は抜刀隊を組織して熊本方面へと突出します。
薩軍の猛攻に驚いた山県参軍は、急遽予備として取っておいた第四旅団を投入せざるを得なくなり、かろうじて薩軍の突出を食い止めるありさまでした。
北の野村隊、西の貴島、中島、河野各隊の奮戦により、薩軍は官軍に対して優位に戦況を進めておりました。
しかし、南では危機的状況が薩軍に起こりつつありました。
御船は一度官軍が制圧したあと、熊本城へ向かったために放棄されておりました。
そこで再び薩軍が制圧し、坂元仲平隊が守備についておりましたが、別働第一、別動第二、別働第三の三個旅団がこれを攻撃。
圧倒的な兵力差に坂元隊はついに抗しきれずに後退を余儀なくされてしまいます。
御船川を泳いで逃げる薩軍は次々と官軍に射撃され、御船川は赤く染まりました。
薩軍本営のある木山は御船に近い位置でした。
御船から後退してきた薩軍兵は木山に逃げ込んできたため、薩軍本営は混乱のきわみに陥ります。
さらに御船を突破した官軍が木山の本営に向かってきたことで、薩軍首脳部は防戦におおわらわとなりました。
そして夜には北でも大津の野村隊が三個旅団の官軍についに抗しきれずに後退を開始。
官軍は北と南から薩軍本営を圧迫する状況となりました。
ここにいたり薩軍首脳部は決断を強いられます。
薩軍本営にいた桐野利秋は、ここを死所として迎え撃つつもりでしたが、後退してきた野村忍助らがこれを説得。
ついに薩軍本営は木山を放棄して矢部浜町へと後退しました。
官軍に対し優位に戦闘を進めていた中島、貴島、河野の各部隊も、本営が後退した以上戦場にとどまることはできず、無念の思いで部隊を引き揚げます。
薩軍との戦闘で疲弊していた官軍は、これを追撃することはできませんでした。
こうしてあの「関ヶ原の戦い」以来最大と言われる平野での野戦、世に言う「城東会戦」はわずか二日で終わりました。
薩軍は局所的には優位に戦闘を進めたものの、兵力差をくつがえすことはできませんでした。
戦いは人吉へと続きます。
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- 2009/09/15(火) 21:32:54|
- 西南戦争
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