3月15日に横平山を占拠した官軍でしたが、17日になってもなお田原坂一帯の薩軍防衛線は突破できませんでした。
抜刀隊をはじめとして、多くの官軍兵士が力闘奮戦しましたが、薩軍の堅い守りを崩すことはできませんでした。
3月4日に始まったこの田原坂付近の戦いでは、すでに官軍は約二千もの戦死者を出しており、負傷者もまた二千名を越えておりました。
これは官軍にとっても無視できぬ数字であり、これ以上の損害はなんとしても防ぎたいものでありました。
3月18日、官軍は野津少将、三好少将、大山巌少将などが集まり、今後の方策を練りました。
そして翌19日を休養にあて、20日をもって総攻撃を行なうことに決します。
官軍としても、ここで何とか薩軍の防衛線を突破しなければ、包囲されている熊本城が陥落してしまい、この戦争そのものが失われかねないのです。
持てる兵力の大部分をつぎ込んでの総攻撃を行なうしかありませんでした。
一方その頃、田原坂での戦闘がいっこうに進捗しないことに業を煮やした政府部内から、別働隊を用いて薩軍の背後からも攻撃させるべきではないかとの声が出始めておりました。
長崎警備隊指揮官の高島大佐もその一人で、参軍の山県有朋に別働隊を八代あたりに上陸させ、薩軍の前線と拠点である鹿児島との連絡を絶ち、分断するべきであると訴えました。
そういった声を汲み、官軍は3月14日に薩軍の後背に回る別働隊として別働第二旅団を編成します。
この別働隊は「衝背軍(しょうはいぐん)」とよばれ、参軍には黒田清隆中将が、そして別動第二旅団司令長官(心得)として高島大佐が任命されました。
別動第二旅団は中核に歩兵四個大隊を持ち、それに警視隊千二百名が加わった総勢約四千名ほどの部隊であり、3月18日には高島大佐自身が歩兵二個大隊と警視隊の一部を引き連れて輸送船に分乗し、海軍の護衛の下に出港します。
途中天草を経由した船団は、翌19日早朝には八代湾に侵入。
日奈久(ひなぐ)に上陸することに決定します。
しかし、日奈久には薩軍の小部隊約三百がいることがわかり、日奈久の南にある洲口(すぐち)の浜に上陸地点を変更。
遠浅の洲口の浜の沖合い約一キロの海上で、黒木中佐指揮の二個大隊と警視隊五百が小船に乗り移って上陸を開始しました。
海岸の守備にまで兵力を回せない薩軍の防備は弱く、日奈久に向かってきた官軍に抵抗するものの、少数である上に官軍海軍の海上からの艦砲射撃も受け、日奈久から後退するより他はありませんでした。
官軍は日奈久を確保したのち、そのまま勢いに任せて八代まで進出します。
八代は南熊本の重要都市でしたが、薩軍は兵力をほとんど置いておらず、官軍の前にあっけなく占領されてしまいました。
夕方には高島大佐と残りの兵力も八代に上陸。
八代は以後官軍の重要拠点として使われることになりました。
官軍の日奈久上陸と八代の陥落は、田原坂で戦っていた薩軍に衝撃を与えました。
このままでは正面と背後から挟撃されてしまいます。
薩軍はただちに上陸した官軍に対処するため、三番大隊長の永山弥一郎が部隊を率いて向かいました。
永山は海岸防備の責任者であっただけに、官軍上陸に責任を感じたのかもしれません。
薩軍はまたしても兵力を分けざるを得なくなってしまいました。
3月20日。
降りしきる雨の中を官軍は田原坂の薩軍に対する攻撃配置につきました。
この日の官軍は攻撃兵力に十九個中隊、予備に二十三個中隊を用意するという過去最大の兵力を用意しました。
午前6時、官軍は薩軍陣地帯に向かって砲撃を開始。
砲撃後、雨と砲撃で対応が遅れた薩軍に対して、官軍歩兵が突撃を開始しました。
今回官軍は今までと違い、七本と境木という場所の薩軍陣地にのみ攻撃を集中。
一点突破を目指しました。
二ヶ所だけを集中攻撃された薩軍は、官軍の猛攻にじょじょに押され始めます。
吉次峠の薩軍も、官軍の牽制攻撃に釘付けにされ、田原坂の応援ができません。
午前10時ごろ、ついに薩軍の敗走が始まります。
鉄壁の田原坂防衛線が突破された瞬間でした。
(20)へ
- 2009/08/12(水) 21:45:01|
- 西南戦争
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0