三次に渡る高瀬の戦いで官軍に一敗地にまみれた薩軍でしたが、まだまだその意気は盛んなものがありました。
山鹿に後退した薩軍は、そこで兵力を集結させ、またしても官軍に対する反撃を企てていたのです。
薩軍の狙いは官軍の拠点である南関でした。
ここを落とすことができれば、官軍は前線の高瀬と後方との連絡が絶たれ、高瀬を孤立させることができるのです。
そうなればその後の戦局も大いに薩軍に有利になるとの目論見でした。
山鹿には薩軍のほかにも「党薩隊」と呼ばれる反政府士族の部隊が集まってきておりました。
熊本県の反政府士族からなる「協同隊」と、宮崎県の反政府士族からなる「飫肥隊」です。
これらを加えた薩軍の総数は約三千名にもなり、桐野利秋が直接指揮を取って南関へと向かいました。
桐野は薩軍を二隊に分け、本隊(六小隊と協同隊)は豊前街道から、別働隊(四小隊と飫肥隊)は間道から南関へと向かいます。
本隊が山鹿から鍋田というところを通り、車坂という坂に出たあたりで、薩軍は官軍前衛と接触します。
明治10年(1877年)3月3日、午前8時ごろのことでした。
官軍の前衛は、車坂に塹壕を掘って布陣しておりました。
薩軍はこの前衛隊に攻撃を開始、激しい銃撃戦となります。
この時、戦場の側面を移動中であった熊本の協同隊の指揮官平川惟一の胸を流れ弾が貫通。
協同隊はあっという間に指揮官を失います。
この平川は家柄でも身分でもなく選挙で指揮官に選ばれた人物で、当時としては珍しい方法で指揮官になった人物であり、人望の高さがうかがわれます。
その人望厚かった平川の死は、協同隊の人々には衝撃でした。
激戦は一時間ほども続き、官軍は支えきれずに長野原まで後退します。
しかし、官軍はこの後も長野原、梅迫口、腹切坂と後退と布陣を繰り返し、容易に薩軍の突破を許しません。
薩軍は桐野自らが前線で叱咤激励するものの、なかなか官軍の防備を崩すことができませんでした。
本隊の支援として後から戦場に到着した薩軍の野村忍助は、官軍の右翼が弱体と見てそこに攻撃を集中します。
この野村隊の攻撃は功を奏し、官軍はついに戦線が崩壊。
下岩までの後退を余儀なくされます。
また、腹切坂では福原大佐が負傷し、のちに死亡するという高級士官の損害も受けました。
こうして薩軍本隊は協同隊の指揮官平川という人材他いく人かの士官を失いましたが、官軍の防御を突破することができました。
また別働隊は間道を抜けたため、小規模な抵抗を順調に排除して夕方には板楠に到着しておりました。
損害は受けたものの、目指す南関まであと10キロメートルほどと迫った薩軍は、翌4日早朝、まさに出発せんとしておりました。
ところがここで運命の報告が舞い込みます。
薩軍の放っていた偵察隊が、凶報を持ち込んだのでした。
すなわち、「田原において薩軍敗退」というものでした。
薩軍の山鹿から南関への攻撃と前後して、官軍は田原方面で攻勢に出ておりました。
世に言う「田原坂の戦い」が始まったのです。
報告はその田原で薩軍が敗退したというものでした。
田原で薩軍が敗退したとなれば、熊本城まではわずかしかありません。
また、山鹿方面へと官軍が背後から迫ってくることも考えられます。
このまま南関を攻撃してもかえって挟み撃ちにされかねなくなってしまったのです。
桐野は苦渋の決断を下します。
薩軍は南関攻撃をあきらめ、山鹿方面へと後退して行きました。
南関の官軍は救われました。
しかし、山鹿近郊の鍋田まで後退した桐野は先の報告が誤報とわかります。
薩軍は田原で負けるどころか、激戦で官軍を食い止めていたのです。
このことは薩軍将兵に地団太を踏ませるには充分でした。
あの報告さえなければ南関は占領できた可能性は充分にあったのです。
薩軍はまたしても勝機を逸したのでした。
戦場に過誤や誤報は付き物ですが、薩軍にはこういった過誤や誤報が足を引っ張る場面が多く見られます。
維新の戊辰戦争を戦ってきた薩軍に何があったのか・・・
どうして桐野や篠原のような指揮官が錯誤を犯したのか・・・
このあたりは西南戦争の謎として今もよくわかっておりません。
ともあれ薩軍の南関攻撃は失敗に終わりました。
戦いの焦点はまさに田原坂へと移ることになりました。
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- 2009/08/01(土) 21:38:06|
- 西南戦争
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