以前、当ブログでロシア帝国の戦艦ボロディノ級を取り上げたことがありました。
ボロディノ級は、日露戦争当時ロシアの最新最強の戦艦でしたが、不幸にして日露戦争の日本海海戦において、同型五隻のうち出撃した四隻いずれもが撃沈されたり捕獲されるという不運に見舞われたクラスでした。
これと同じく、一回の海戦で同型艦四隻中三隻を失った重巡洋艦がありました。
イタリア海軍の重巡洋艦「ザラ」級です。
ザラ級重巡洋艦は、その一クラス前のトレント級重巡の改良版として建造が行われました。
トレント級重巡は、イタリア初の20センチ砲を主砲に持つ重巡として建造されましたが、当時のワシントン海軍軍縮条約の制限内で建造されたため、防御力が不足しておりました。
そこでイタリア海軍は主砲の砲力はそのままにして、速力の低下をしのんだり魚雷発射管を搭載しないなどの重量軽減策を行い、その重量を装甲に回すというやり方で防御力を高めた重巡を建造しようといたしました。
これがザラ級重巡洋艦であり、イタリア重巡としては攻撃力と防御力のバランスが取れ、完成当時は世界でも有数の防御力の重巡洋艦となりました。
基準排水量は約一万二千トン。
20センチ主砲を連装四基八門搭載し、速度は約32から33ノットと優秀な巡洋艦でありました。
1940年にドイツ軍がフランスに攻め込んだ際、イタリアもその漁夫の利を得るためにフランスに宣戦布告。
イタリアも第二次世界大戦に参戦します。
フランスでの漁夫の利が思うように得られなかったムソリーニは、こんどはギリシャに攻め込みますが、逆にギリシャ軍に痛撃を受け、アルバニアに追い戻されてしまいます。
イタリアの支援を行なわざるを得なくなったドイツはギリシャ侵攻を決断しますが、親英国であるギリシャには英軍の援軍が続々と輸送されてきつつありました。
このままみすみす英軍の増加を見過ごしていたのでは、ドイツのギリシャ侵攻も苦戦しかねなくなります。
そこでドイツはイタリアに対し、英国の輸送船団を攻撃するよう申し入れました。
自分から始めたギリシャ侵攻でしたが、当初イタリア海軍はこの輸送船団攻撃には消極的でした。
しかし、ドイツからの圧力と艦隊司令官イアッキーノ提督の攻撃を求める進言に動かされ、イタリア海軍は出撃します。
時に1941年3月26日でした。
イタリア艦隊はナポリからはイアッキーノ提督自らが座乗する戦艦ヴィットリオ・ヴェネトを旗艦とし、重巡三隻と駆逐艦が、タラントからは重巡三隻と軽巡二隻と駆逐艦がそれぞれ出撃。
英国の輸送船団を目指します。
一方英国海軍はいろいろな情報からイタリア海軍の出撃を察知しており、すでに輸送船団を退避するべく動いておりました。
さらにイタリア艦隊迎撃のため、カニンガム提督指揮下の戦艦三隻と空母一隻の地中海艦隊の主力と、ウィッペル提督の巡洋艦隊がそれぞれイタリア艦隊に向かっておりました。
3月28日朝、イタリア艦隊の索敵機が先に英国の巡洋艦隊を発見します。
その後英軍の巡洋艦隊もイタリア艦隊を確認し、午前8時12分に最初の一弾がイタリア艦隊から発射されました。
英軍巡洋艦隊は東に向けて逃走を開始し、イタリア艦隊はこれを追いましたが、イアッキーノ提督はこの英軍の動きを罠と読み追撃を中止させます。
引き返し始めたイタリア艦隊を今度は英軍が追跡。
すると、イタリア戦艦ヴィットリオ・ヴェネトに遭遇してしまいました。
午前10時55分にヴィットリオ・ヴェネトは英軍に対し砲撃を開始。
軽巡しかいなかった英軍艦隊は、すぐさま今度は南へ逃走します。
ちょうどその頃、イタリア艦隊の上空に英空母フォーミダブルから発進した雷撃機が到着し、ヴィットリオ・ヴェネトに対して攻撃を行ないます。
これによって英軍艦隊は辛くも逃走に成功しましたが、航空機攻撃もまた命中弾無しという結果に終わりました。
空母の雷撃機が来たことで、イアッキーノ提督は近辺に英空母がいることを知り、撤退を決めます。
ちょうどお昼ごろのことでした。
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- 2009/07/30(木) 21:19:54|
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>>柏木様
お久しぶりです。
こっち方面もいけますかー。
高雄級もいろいろと不幸な巡洋艦かもしれませんですね。
- 2009/08/05(水) 21:21:13 |
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