第二次高瀬会戦で官軍に痛撃を浴びせられてしまった薩軍でしたが、いったん後退し態勢を立て直すことに成功しておりました。
さらに、熊本から到着した兵力が中核となって、官軍に対し三方からの分進合撃による逆襲を企図していたのです。
すなわち、右翼からは桐野利秋率いる三小隊約六百。
中央には篠原国幹、別府晋介率いる六小隊約千二百。
左翼からは村田新八の五小隊約千と、合計約二千八百もの兵力で、官軍を撃破しようとしておりました。
一方の官軍は、高瀬に約四千の兵力が集結しつつありました。
中核は第二旅団で、そこに近衛第一連隊や第八連隊が加わり、数の上では薩軍を上回る体勢を整えつつあったのです。
官軍は第二旅団の本営を高瀬の北にある船島に置き、薩軍の逆襲に備えておりました。
第三次高瀬会戦は2月27日の午前6時頃に始まりました。
薩軍篠原隊が菊池川東岸に到着し、布陣している官軍と戦端を開いたのです。
官軍は東岸に渡っていた前衛が篠原隊に攻め込み、西岸からは砲撃で対抗しますが、篠原隊も銃砲撃でこれに応戦、双方の激しい撃ち合いとなりました。
官軍はこの篠原隊の攻撃に対応するため、兵力を差し向けます。
第二旅団本営にいた三好少将も前線である迫間に向かいそこで指揮を取りますが、薩軍からの銃撃を受け負傷してしまうほどの激しい銃砲撃でした。
午前10時ごろ、山鹿方面から桐野利秋隊が戦場に到着。
上流ですでに菊池川を渡河した桐野隊は、官軍左翼に攻めかかります。
ほぼ時を同じくして伊倉方面からは村田新八隊も到着し、菊池川の下流を渡って官軍右翼に攻撃を開始しました。
兵力的には優勢な官軍でしたが、この三方からの分進合撃は予想以上に痛撃となり、官軍右翼と左翼は戦線を支えることができませんでした。
特に薩軍桐野隊の攻撃はすさまじく、攻撃を受けた官軍左翼の乃木隊は簡単に蹴散らされ、桐野隊は元玉名というところまで進出を果たします。
この左翼と右翼の崩壊は、官軍にとっては致命的なものになりかねないほどのものでしたが、ここで官軍は粘りを見せました。
第二旅団の参謀長野津大佐は、薩軍桐野隊の側面に位置する稲荷山の重要性を即座に認識。
大迫大尉の中隊を派遣して稲荷山を確保させます。
間一髪のタイミングで稲荷山を占拠した官軍大迫中隊は、遅ればせながら稲荷山の占拠に向かった薩軍桐野隊の一部を稲荷山の上から射撃。
標高八十メートルほどの小山とはいえ、辺り一帯の制高点である稲荷山を薩軍はついに占拠することができませんでした。
この稲荷山の争奪は、羽柴秀吉と明智光秀との間で戦われた「天王山の戦い」になぞらえられ、西南戦争の天王山であるといわれます。
一方官軍右翼に攻撃を行なった薩軍左翼の村田隊は、篠原隊よりの応援も受けて順調に官軍右翼を押しておりました。
官軍右翼は第八連隊が布陣しておりましたが、薩軍の攻撃に抗しきれずについに後退。
周辺の集落に火を放ちながら葛原山へと後退して行きました。
稲荷山の確保はならなかったものの、桐野隊、村田隊の攻撃で左翼右翼が押し込まれていた官軍は苦しい立場に追い込まれておりました。
ところが午後2時ごろ、戦場に異変が生じます。
正面から官軍と戦っていた薩軍篠原隊が勝手に後退を始めたのです。
薩軍、いわば島津家の戦い方にはありがちな話とはされておりますが、早朝からの戦いで弾薬も乏しくまた疲労も重なってきたため、戦場から離脱したというのです。
しかもこれは桐野隊や村田隊に無断で行なわれたことでした。
篠原隊の後退で、官軍の中央部は圧力が弱まりました。
官軍は中央部から兵力を引き抜くことができるようになり、左翼右翼に兵力を移動させます。
官軍の兵力が急激に増加してきたため、薩軍村田隊はじょじょに押し返され始めました。
村田隊には篠原隊の一部が応援に来ておりましたが、その中には西郷隆盛の弟である西郷小兵衛もおりました。
この西郷小兵衛が胸を撃たれ戦死します。
のちに弟の戦死の報告を受けた西郷隆盛は、呆然として声も出なかったとのことでした。
西郷小兵衛を初め、薩軍は多くの損害を出し始めます。
午後4時ごろ、ついに薩軍村田隊も伊倉方面へと後退を始めました。
増援の到着により官軍に周囲を囲まれる形となった薩軍桐野隊もまた、多くの損害を出しつつ血路を切り開いて後退することになりました。
三方から官軍を包囲殲滅するはずだった薩軍の攻撃は、ここに費えたのです。
第三次高瀬会戦もまた、官軍がかろうじて勝利を収めることになったのでした。
稲荷山の争奪が「天王山の戦い」になぞらえられたごとく、この第三次高瀬会戦自体を西南戦争における「関ヶ原の戦い」と呼ぶ人もいるといいます。
薩軍はその主力と中心人物が一堂に会し、官軍に対して攻勢をかけた最初で最後の戦いだったからです。
しかし、連携のまずさや兵力の少なさなどから、薩軍は官軍を包囲殲滅する最大の好機を生かすことができませんでした。
こうして三回にわたった高瀬での戦いは終わりました。
官軍は高瀬に地歩を固めることはできましたが、なお薩軍は多くの兵力を保持しておりました。
戦いは、まだ始まったばかりでした。
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- 2009/07/27(月) 21:11:37|
- 西南戦争
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薩摩軍の中央隊が後一時持ちこたえていたら、と言う話を良く聞きますが、精神的にも弾薬的にも撤退ムードの高まっていた彼等のことですから、何れは撤退していたんでしょうね。
また、この戦いでも、咄嗟の判断と行動のタイミングの良さが、戦況を左右していますね。
名将と呼ばれる人々は、状況判断能力に優れ、絶妙のタイミングで行動出来る人間なのではないでしょうか?
- 2009/07/27(月) 22:01:36 |
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- 神代☆焔 #-
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>>神代☆焔様
三方からの分進合撃を行なうのであれば、やはり連携が大事だと思うのですが、その連携がうまく行かなかったということなんでしょうね。
名将に関してはおっしゃるとおり状況判断に優れ、機を失さない人が名将たりえるのだと思います。
- 2009/07/28(火) 21:08:58 |
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- 舞方雅人 #-
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