2月26日、高瀬で再度戦端が開かれました。
官軍は、三好少将自らが高瀬後方の石貫に到達。
麾下部隊を展開させて薩軍と対峙します。
三好少将麾下の部隊が到着したことにより官軍は総勢約千六百に増強されました。
ここで官軍は薩軍に対して攻勢を取ることに決定。
菊池川を渡って薩軍に攻めかかります。
薩軍には前日到着していた越山休蔵率いる三個小隊が加わっていたものの、兵力的には劣勢な状態となり官軍の攻撃を受け止める形になってしまいます。
この越山隊は薩軍の右翼に位置しておりましたが、ここに攻撃を仕掛けてきたのは乃木少佐率いる約五百の官軍でした。
乃木隊と越山隊は早朝からぶつかり合いましたが、二百五十ほどの越山隊ではやはり防ぐことは難しく、さらに乃木隊に増援が加わったこともあって、正午ごろには後退を余儀なくされてしまいます。
官軍はこれに勢いを得て、増援でやってきていた約千の兵力が菊池川を渡河。
薩軍と正面からぶつかります。
薩軍は官軍の圧力を受け止めきれず、各部隊が後退を開始。
植木、伊倉方面と木葉方面へと撤退して行きました。
この後退に乗じて乃木隊は越山隊を追撃します。
負け続けだった乃木隊の兵士は、ここぞとばかりに薩軍を追いました。
逃げる越山隊を追って木葉を超え田原坂まで進出した乃木は、この田原坂の確保こそが重要だとして三好少将に増援を要請します。
しかし、いまだ相対的に兵力が劣勢と見たのか、三好少将はこの増援要請に対し逆に乃木隊に後退するよう命じました。
乃木はこの命令にやむなく後退。
官軍は田原坂を確保し損ねました。
この時点での判断としてはやむを得なかったことかもしれませんが、このとき田原坂を確保しなかったことが、のちのち官軍を大いに苦しめることになります。
薩軍を追い払うことに成功した官軍は、こののち高瀬の守りを固めます。
こうして第二次高瀬会戦も終結することになります。
この第二次高瀬会戦では一方的に押し捲られた薩軍でしたが、このまま押されっぱなしで終わるつもりはありませんでした。
熊本城への攻撃を強襲から包囲へと切り替えた薩軍は、この高瀬方面へと兵力を差し向けます。
篠原国幹、桐野利秋、村田新八、別府晋介という薩軍の中核がそれぞれの部隊を率いて高瀬に向かい、その総勢は約二千八百というものでした。
彼らは高瀬にいる官軍を三方からの分進合撃により撃破することに決定。
夜のうちにそれぞれの部隊を配置につけます。
高瀬での三日目の戦いがまたしても始まろうとしておりました。
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- 2009/07/24(金) 21:36:51|
- 西南戦争
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相変わらず情報収集の手際の悪さが目立つ戦いですが、この時代、忍者のような情報戦術に特化した者は居なかったのでしょうか?
そんな疑問が湧きました。
- 2009/07/24(金) 22:05:49 |
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- 神代☆焔 #-
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>>神代☆焔様
これでも当時としては相当な情報力だったと思います。
電信が実用化され、薩軍の動きはかなりな部分で官軍には伝わっていたようですので。
ただし、どうしてもタイムラグがあるので、活用するには大変だったのでしょうね。
- 2009/07/25(土) 20:49:03 |
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- 舞方雅人 #-
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