昭和10年、大日本帝国海軍は、最新鋭航空母艦「蒼龍」の就役に伴う新型艦上急降下爆撃機の開発に着手しました。
この時日本海軍が目指したのは、全金属製の単葉高性能艦爆でしたが、当時の日本にはまだ高性能艦爆を独自に開発する技術力が備わってはおりませんでした。
そこで日本海軍は、技術先進国であるドイツの高性能機を元にして、新型艦爆を開発することにします。
この時参考とされたのが、ハインケルHe70という機体でした。
このハインケルHe70は、単葉単発の航空機で、最高速度が時速370キロ以上も出るという、当時としてはかなりな高速機だったのですが、爆撃機でも戦闘機でもなくなんと旅客機だったのです。
とはいえ、ハインケルHe70は単発の小型機ですので、乗客は二人から多くて四人乗りで、高速で移動したい人向けの急行便のようなものだったのでしょう。
日本はこのハインケルHe70を、高速艦爆の実験用に輸入しており、この機体を元にして新型艦爆の開発を昭和11年に愛知航空機に命じました。
愛知航空機は、このハインケルHe70を基に愛知十一試艦爆を完成させます。
そして、中島航空機が開発した中島十一試艦爆と比較試験が行なわれ、その結果、愛知製の十一試艦爆が選ばれました。
愛知製十一試艦爆は、昭和14年に正式採用され、九九式艦上爆撃機という正式名称がつけられます。
九九式艦上爆撃機は、元となったハインケルHe70が液冷エンジンを装備して引き込み脚だったのに対し、空冷エンジンを搭載して固定脚というエンジンはともかく形としては古めかしい形をしておりましたが、性能は充分なものがあり、太平洋戦争の序盤では搭乗員の力量とも相まって、華々しい戦果を上げました。
しかし、本来であれば後継機が作られ引き継がれるはずが、新型後継機の開発が滞り、やむを得ず九九式艦上爆撃機は戦争中盤から終盤まで使われることになってしまいます。
そのため、戦争中盤以降は、エンジンを強化した二二型が登場しましたが、やはり能力不足はいかんともしがたく、連合軍の餌食になってしまいました。
九九式艦上爆撃機は、太平洋戦争時の日本海軍の航空機を代表する機体の一つなのですが、まさかその設計の基礎となったのが高速旅客機であるとは思いませんでした。
まだまだ知らないことがいっぱいありますね。
それではまた。
- 2009/05/22(金) 21:16:15|
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