「インケルマンの戦い」は、1854年の戦いの締めくくりともいえる戦いでした。
11月に入ったことで、さすがの黒海沿岸地域も冬が到来しつつあったのです。
冬を前にして両軍は自然と冬営の準備に入りました。
戦場で冬を越す準備に入ったのです。
1853年にロシアとオスマン・トルコの間で始まった「クリミア戦争」は、まる一年経っても終わる気配がなく、三年目に突入することが確実になったのでした。
11月14日。
冬の到来に備えて補給物資を満載した連合軍の輸送艦隊が、黒海で猛烈な嵐に遭遇し多数が失われるという事件が起きます。
これにより、前線の連合軍は物資不足が深刻化し、寒さと飢え、そしてそれに伴う疫病に見舞われることになりました。
スクタリの野戦病院でも軍需物資や医薬品が届かなくなり、結局ナイチンゲールが持参した資金で物資を購入して間に合わせるという事態に陥ります。
もはや野戦病院はナイチンゲールがいなくては何もできなくなりつつありました。
12月には増大する負傷兵のために病棟の補修を持参した資金で行い、さらには病院側の外国人雇用者との間の問題を調停したり、死者の家族に手紙を送ったりとまさに寝る間もないほどの活動をナイチンゲールは行ないます。
そしてこの野戦病院の実情を本国の戦時大臣ハーバードに伝え、やがてそこからマスメディアによって彼女の活動が英国民の知るところとなると、英国民はこぞって寄付金を出すなど彼女の活動を支援し始めます。
その額は何百万ポンドにも達したと言われ、高度な教育と訓練を受けた看護婦の養成にも力が向けられるようになりました。
ナイチンゲールの活動は、まだ病院での死亡率を低下させるまでにはいたりませんでしたが、多くの傷病兵が彼女の存在に癒され、勇気付けられたのは言うまでもありません。
ただ、病院での死亡率が低下するにはもう少しの時間が必要でした。
一方、セバストポリのロシア軍と向かい合う英軍前線でも、寒さに震える将兵のために司令官ラグラン卿が、天幕用の布を使った冬用のコートのようなものを作らせました。
そのコートは着やすいように工夫が凝らされ、楽に着られるような袖口となっておりました。
これが今に伝わる「ラグラン袖」の始まりでした。
「カーディガン」といい、「ラグラン袖」といい、クリミア戦争発祥の衣類が現在まで継承されているんですね。
年内の間は連合軍もロシア軍も自然休戦的な状況となり、目立った作戦行動は行なわれませんでした。
少数の部隊が敵軍の連絡線や小部隊への奇襲攻撃を行なうぐらいだったのです。
明けて1855年。
日本では安政元年となり、いよいよ幕末の動乱期に入ることになります。
年明けそうそう、ロシア軍はバラクラヴァやエフパトリアの連合軍に対して小攻撃を行い、冬営中の連合軍を脅かしました。
ロシア皇帝ニコライ一世にしてみれば、何とかクリミア半島の連合軍を撃破して、この戦争の終結を図りたいところだったのでしょう。
ところが、そんなニコライ一世の思惑を無残に打ち砕くようなことが起こります。
1855年1月26日。
イタリア半島の西側に浮かぶサルディニア島とイタリアのピエモンテ地方を領有するサルディニア・ピエモンテ王国が、英仏オスマン・トルコ連合軍に参戦。
ロシアに対して宣戦を布告し、ロシアを驚愕させました。
サルディニア・ピエモンテ王国は、当時まだ小国分立状態だったイタリア半島において優勢な勢力を持ってはおりましたが、ハプスブルグ家のオーストリアがイタリアに対して影響力を保持しているため、なかなかイタリアを統一することができないでおりました。
そこで、本来何の関係もないはずのこの「クリミア戦争」に参加することで、英仏の歓心を買い、将来のイタリア統一の援助を引き出そうとしたのです。
このサルディニアの参戦により、「クリミア戦争」は英仏オスマン・トルコ&サルディニアの四ヶ国連合軍対ロシア軍というロシア軍にとっては厳しいものとなりました。
サルディニア軍一万七千がクリミア半島に向かったことで、連合軍は戦力的にも非常に助かる状況になり、のちにサルディニアはイタリア統一に対して英仏が支援するという見返りを受けることになるのでした。
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- 2009/04/25(土) 21:17:57|
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