元禄十四年(1701年)三月十四日。
江戸城松の廊下において、赤穂藩藩主浅野内匠頭長矩が高家吉良上野介義央に刃傷。
浅野内匠頭長矩は即日切腹。
赤穂藩はお取り潰しとなりました。
赤穂藩は大混乱。
筆頭家老大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)を初めとする篭城派と、国家老大野黒兵衛(おおのくろべえ)を初めとする恭順派に分かれて論争となりました。
もちろん皆さんご存じの通り、その後大石内蔵助も恭順に賛成し、赤穂城は見事なまでに整理されて引き渡されました。
もっとも、赤穂城は篭城したくても篭城に耐えられる城ではなかったんですね。
赤穂にはもともと城はありませんでした。
浅野内匠頭の祖父浅野長直(あさのながなお)が赤穂へ転封されたときに、幕府に願い出て築城したものとのことです。
ところがこの城は城としては重大な欠点のある城でした。
築城された地は基礎地盤が堆積層ということで、井戸を掘っても水が出ない土地でした。
そのため赤穂城は水源を城の外に求め、その水源から水道を引いて城内に引き入れていたのです。
つまり、篭城したとしても、その水の手を断ち切られた場合、ほぼ確実に早期落城の憂き目を見ることは間違いなかったのです。
関が原から100年。
城も戦闘用ではなく、政庁としての役目しか求められなかったのでしょうね。
赤穂五万七千石は、この後森長直(もりながなお 森蘭丸の弟の子孫)が二万石で入り、幕末まで続くことになります。
それではまた。
- 2006/11/06(月) 21:21:20|
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信長政権の末期頃から一国に対し城一つという方針ができ初めたようですね。
反乱を予防するためにも堅固な城が要所にあると困るというのが理由ですが。
藩の内政を行うためだけに必要な施設なので見栄えが悪くなければいいという判断で防御は二の次だったのでしょうか?
話は変わりますが赤穂藩は藩札の換金をほぼ全て行ってから潰れた数少ない藩だったらしいですね。
大石たちは下手に反抗したらそれこそ御家再興の最後の望みまで絶たれかねないと判断して
領地は善政がほどこされてるということをアピールしてなんとか取り潰しを免れようとしたようです。
大阪の商人たちはこの措置をひどく感謝しており大阪で赤穂浪士が芝居で演じられるときは空席があったら商人たちが金をだして席を買い取ったという話があると聞いたことがあります。
商売上の信用を守る。ごく当たり前なことですが武士が自分より身分が低い商人との約束を守るということがめずらしかったのでしょうね。
- 2006/11/06(月) 22:27:14 |
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- あぼぼ #-
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城引渡しの騒動でも分かるとおり、赤穂藩を運営してたのは、筆頭家老の大石と、家老の大野の二人です。
んで、大野九郎兵衛は塩田開発に大功ある経済官僚。大石も昼行灯などといわれてましたが、浪々の身でどこからか費用を捻出し京都で豪遊とかしてられるほど理財の才のある人、つまり赤穂は「経済屋の藩」なんですね。
だからこそ、藩札もきちんと整理して、物乞い辻斬りに身を落とすものも出さず、脱盟者はありながらも1年半も「赤穂浪士」なる金にもならない胡散臭い組織を維持し、さらに旗本500石ながら「浅野家復興」にまでたどり着くことができたのでしょう。
しかもこの旗本500石浅野家、明治まできちんと生き延びるんです。いやー経済屋恐るべし恐るべし。
- 2006/11/07(火) 21:13:09 |
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- FX_とくめー #-
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>>あぼぼ様
大石たちへの商人の援助というのは「天野屋利兵衛」の話(これは創作ですが)に代表されるようにあったようですねー。
赤穂藩の最後は実に見事だったというのはどの資料見てもそのようです。
なぜに殿は刃傷に及んだのか・・・
部下はよかったのに。(T_T)
>>FX_とくめー様
その経済力に吉良が嫉妬した・・・というでっち上げもありますねー。
塩の製法を聞いたが教えてもらえなかったとかで、吉良が浅野に意地悪を。
まあ、吉良を悪人にしないとお話が成り立ちませんからねー。
浅野家や大石家が再興されたのと正反対に、吉良家は養子義周の死をもって断絶。
幕府は最後まで片手落ちのままだった気がします。
- 2006/11/07(火) 22:19:53 |
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- 舞方雅人 #-
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