元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜、本所松坂町の高家吉良上野介義央邸に、元赤穂藩家臣大石内蔵助良雄以下の四十七人が、主君の仇を討つべく討ち入りました。
いわゆる「忠臣蔵」です。
この時、実際は大石内蔵助以下は火消し装束ではなかったとのことですが、お芝居やドラマの世界では火消し装束に身を包んで討ち入ります。
江戸市中で徒党を組んで歩いていても怪しまれなかったのが火消し一党だったことから、火消し装束が選ばれたとの説もあるそうで、実際彼らが身につけたのは火消しに見紛うことを期待したとも取れる黒装束だったそうですが、芝居やドラマでは堂々とした火消し装束です。
赤穂浪士と火消し装束のつながりは、この事件よりかなりさかのぼります。
豊臣家の五奉行の一人であった浅野長政は、関ヶ原の戦い以後徳川家を支持し、息子の浅野幸長が安芸広島四十二万石を受け取りました。
この幸長の弟に浅野長重(あさの ながしげ)という人物がおり、彼が父長政の死に際して長政の隠居領五万石を相続します。
そして長重の息子浅野長直(あさの ながなお)のときに赤穂五万三千五百石に移封となりました。
これが赤穂浅野家の始まりです。
この浅野長直は名君と言われ、赤穂城や城下町の整備や塩田の開発などで赤穂藩の実収を高め、五万石ほどの中藩でありながらも結構裕福な藩として赤穂藩は知られることになります。
寛永16年(1639年)に浅野長直は将軍の命令による奉書火消しに任じられました。
奉書とは将軍の命令書のことだそうです。
この奉書火消しには各大名家が当てられ、寛永16年時には浅野家ほか六大名家が任命されてます。
六大名家がそれぞれ火消しを編成し、江戸市中の火災対策に当たったのでした。
その奉書火消しの中でも、浅野長直率いる火消しは名人級の腕前だったといわれ、「浅野内匠頭殿がお出ましならば、もうこれで火は鎮まったも同然」とまで江戸市民に信頼されたとのことです。
この浅野内匠頭は浅野長直であり、のちの刃傷事件を起こす浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり)ではありません。
ですが、江戸市民にとっては、浅野家というと長直の奉書火消しの名人振りを思い出したといわれ、そこから浅野家=火消し装束という図式が出来上がったというのです。
そのため、討ち入りの赤穂浪士の装束は火消し装束ということになっていったということらしいです。
のちには江戸町火消しが組織されることになりますが、元禄期には火消しといえば浅野家というイメージだったんでしょうね。
ところで、いよいよあと5000ヒットほどで140万ヒットに到達することになりました。
そこで、140万ヒット到達記念として、中編SSを一本投下させていただきます。
明日から14日間(2週間)連続で投下いたしますので、どうか楽しんでいただければと思います。
よろしくお願いいたします。
それではまた。
- 2008/12/14(日) 20:41:07|
- 趣味
-
| トラックバック:0
-
| コメント:3
毎回タメになりますね、舞方さんのお話。
>明日から14日間(2週間)連続で投下いたしますので
これは期待。
- 2008/12/14(日) 23:04:53 |
- URL |
- 名無しですー #-
- [ 編集]
>>名無し様
タメになると言っていただけると書いたかいがありますです。
今日からのSSも楽しんでいただけるとよろしいのですが。
>>神代☆焔様
いやいや、資料本の引き写しに過ぎませんので。
今日からのSS、お楽しみに。
- 2008/12/15(月) 19:16:22 |
- URL |
- 舞方雅人 #-
- [ 編集]