堺の町を徹底的に焼き尽くした大坂方は、その軍勢を持って岸和田城に迫りました。
しかし、岸和田城は防備を固めてしまったために大坂方は目標を変更、和歌山城より大坂を目指してくる浅野長晟の軍勢を襲撃することにします。
浅野長晟は父が豊臣秀吉政権時代に五奉行を勤めていた浅野長政であり、その浅野長政は浅野長勝(あさのながかつ)の養子で、同じ長勝の養女にいたのがおね(ねね:のちの秀吉の正室北政所・高台院)であったというつながりから、豊臣秀吉の一番近い縁戚の一人とされ重用されました。
そのため大坂方としては、豊臣家に尽くすのが当然として冬の陣のときにも使者を送って味方するように誘いをかけましたが、家康の娘を娶っていた浅野長晟は当然これを拒否。
今回の戦にも徳川方としてその居城和歌山城から軍勢を進発させてきたのでした。
大坂方としては、五奉行を勤めたこともある家柄でありながら豊臣家に弓を引く浅野家に対し、その懲罰という意味に加え、紀州方面の安全を確保するためにも初戦で敵を制して味方の士気を高めるためにも、浅野勢を叩いておくことは意味があると考えられたのでしょう。
一方の浅野長晟は、大坂方の仕掛けた紀州での地侍の一揆を警戒し軍勢の出陣を手控えておりましたが、京都所司代板倉勝重より出陣の催促があったために腰を上げざるを得ず、約五千の軍勢を率いて大坂に向かいつつあるところでした。
堺の町の焼き討ちのあった慶長20年(1615年)4月28日夜半。
和泉国佐野(現在の泉佐野市)に到着した浅野勢は、物見の報告から大坂方が近づいてきていることを察知します。
しかし、大坂方の軍勢を約二万の大軍勢と誤認したことから、このままぶつかっても勝機は低いと考えました。
そこで防御に適した場所に後退し、そこで大坂方を迎え撃つという策をとることにします。
浅野勢が選んだのは樫井という地でした。
浅野勢主隊は早々に樫井を目指し、亀田高綱(かめだ たかつな)隊がしんがりとなって大坂方を防ぎつつ後退するという形を取って、浅野勢は動き始めます。
大坂方は岡部則綱(おかべ のりつな)が先鋒となり佐野に接近しますが、すでに浅野勢は引き上げたあとでした。
勇む岡部はそのまま追撃しようとしましたが、大坂方の戦巧者の一人である塙団右衛門直之(ばん だんえもんなおゆき)が制止します。
かつては加藤義明配下の鉄砲大将として関ヶ原の戦いにも参加した塙団右衛門は、その直情径行な荒武者振りから大将の器にあらずとして加藤義明にたしなめられたために加藤家を飛び出しておりましたが、歴戦の武士である彼は、夜間の行動の危険さを感じて岡部則綱を止めたのでしょう。
もともと対浅野勢での大坂方の先鋒を命じられていたのは塙団右衛門であり、彼は自らが偵察のために先行します。
しかし、岡部はこれを良しとせず、軍勢を率いて前進を開始。
抜け駆けされたと感じた塙団右衛門は、これもまた軍勢を率いて前進を開始します。
お互いの意地の張り合いのような前進は、やがて競走のごとくなっていき、早駆け状態で亀田勢への突進となりました。
これに対し亀田高綱は冷静に対処。
大坂方が駆けて来るのを充分にひきつけた上でいっせいに射撃を開始させ、敵の前衛が倒れてひるんだ隙に後退して陣を張りなおし、再び向かってくる大坂勢に銃を撃ちかけるという見事な後退戦を演じます。
大坂方に痛撃を与え続けてきた亀田勢でしたが、樫井の村に近づいたあたりでついに大坂方に追いつかれ、乱戦に巻き込まれます。
こうなると大坂方の塙団右衛門としては望むところなのですが、樫井の村には先に後退していた浅野勢主隊が陣取っており、彼らが今度は亀田勢の救援に動きます。
4月29日の朝方から始まった戦いは、双方激しい斬り合いでの白兵戦となり死傷者が続出。
大坂方は乱戦の中で岡部則綱は撤退し、塙団右衛門はなんと討ち死にします。
他にも淡輪重政(たんのわ しげまさ)などの有力武将も討ち死にし、大坂方は無視できぬ損害を受けることになりました。
浅野勢もいったん紀伊山口まで後退。
再度陣を敷きなおします。
大坂方の指揮を取っていた大野治房は、樫井で戦いが始まったと聞いてすぐに軍勢を率いて駆けつけましたが、そこで彼が知ったのは塙団右衛門の討ち死にと岡部の敗走、浅野勢の後退でした。
結局大坂方は軍勢を取りまとめて大坂城へ後退。
こうして「樫井の戦い」は終わりを告げ、初戦で浅野勢を撃破して意気上がるはずだった大坂方は、逆に初戦で敗北を喫する羽目になったのでした。
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- 2008/08/27(水) 20:43:25|
- 豊家滅亡
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こうした戦の知識が、WAR-GAMEに生かされたりするんですね(笑)
- 2008/08/28(木) 01:37:12 |
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