今日から一週間ほどかけて、「ブログ丸15年達成記念」として、少し長めのSSを一本投下させていただきます。
タイトルは「ゴキブリの棲む家」です。
舞方がpixivで相互フォローさせていただいている方に、
ma2さんという方がいらっしゃいます。
そのma2さんが書かれました作品に、「
Chill阿久多」という作品がございまして、それがもう私のどツボに嵌まるむちゃくちゃ素敵な異形化作品でした。
(作品名クリックで作品に飛べます)
そのため、いつかこのような作品を自分でも書きたいと思い、厚かましくも似たようなシチュで書きあげましたのが今作です。
いわば、インスパイアされオマージュとして書かせていただいた作品ということになりますでしょうか。
ですので、似たようなシーンも作中には登場しますが、ma2さんからは快く掲載の許可をいただきましたので、今回記念作品として投下させていただこうと思います。
先に申し上げますが、今作品は「ゴキブリ」が大いに絡む作品となります。
苦手な方は充分ご注意していただければと思います。
それではどうぞ。
ゴキブリの棲む家
土曜日
引っ越し業者のトラックから荷物が次々と運び込まれていく。
やや築年数の経過した二階建ての一軒家。
塀で囲われた敷地には駐車スペースと小さな庭もある。
多少手入れは必要かもしれないが、家族三人の住む家としては申し分がない。
「どうだ? 今日からここが新しい我が家だぞぉ」
茅場博文(かやば ひろふみ)は誇らしげに胸を張る。
40歳になったばかりでマイホームを手に入れたとなれば、胸を張りたくなるのもわかろうというものだ。
端正でバランスの取れた躰つきをした男性だが、スポーツマンというほど筋肉質でもなく、どちらかというと研究者ぽいタイプである。
最近は仕事上デスクワークが多いため、お腹周りに贅肉が付き始めているのが困りもの。
運動しなきゃと言ってはいるが、なかなかそうはいかないものだ。
「あ、それはそこでいいですから。ええ、それはそっちで」
業者に荷物の置き場所を指示しつつ、リビングに入ってくる妻の茅場結花(かやば ゆか)。
38歳で一児の母とは思えぬスタイルの良い躰をしており、ショートカットの黒髪とジーンズにパーカーという服装とも相まって、活動的な女子大生とまではいかないまでも、かなり歳が若く見えるのは確かだ。
「それにしても、ホントにこの家が私たちのものになったのねぇ」
今までの狭いアパートに比べれば雲泥の差と言っていい。
二階に二部屋、一階にはリビングのほかに一部屋があり、独立したキッチンやお風呂場もあるのだ。
「そうだぞ。俺たちの家だ。ここがあんなに安く買えるとは思わなかったな」
結花の言葉に博文もうなずく。
確かに中古とはいえ庭付きの一軒家としては相場をかなり下回る価格だったろう。
だからこそ彼もここを買う気になったのだが。
「でも、ホント安かったけど・・・まさか事故物件とかじゃないわよね?」
買ってしまっていまさらとはいえ、結花は少し不安になる。
実は誰かが中で死んでいたことがありました・・・なんて家ならいやすぎるではないか。
「そりゃ大丈夫だろ。不動産屋もそういうのは告知義務があるっていうし、ネットで調べても何も出てこなかったしな。まあ、結構築年数が経っているから、それで安かったんだろ」
ハハハと笑い飛ばす博文。
彼としても破格の安さに気になったことは確かで、調べてはみたのだ。
だが、何も出てこなかったし、やはり古さのせいだろうと結論付けていた。
それに実のところこの場所は駅から少し離れているし、スーパーに買い物に行くにしても結構遠い。
そう言った意味ではやや不便な立地でもあるので、価格が安かったのかもしれないのだ。
「そう言えば良樹(よしき)はどうした?」
ふと息子の姿が見えないことに気が付く博文。
「もう二階に行ってあーだこーだとやっているわよ。机はこっち、ベッドはあっちって」
くすっと結花が笑う。
自分の部屋が持てたことがよほどうれしいのだろう。
引っ越しが決まった時から、室内をどうするか一所懸命考えていたらしいのだ。
そして今、晴れてその計画を実行しているということだろう。
「そうか。まあ、今までは自分の部屋というほどではなかったしな」
狭いアパートで家族三人がひしめき合って暮らしてきたこれまでとは違い、これからは一室まるごと自分で使えるのだ。
それはもううれしいに決まっている。
「でも、校区が同じでよかったわね。転校しないですむから、良樹も気楽だったみたい」
確かに転校ということになれば、良樹も新しい部屋のことと新しい学校への不安が相殺されて、今ほど楽しめてはいなかったかもしれない。
とはいえ、校区の端っこに近い位置なので、朝は今までよりも10分は早く家を出ないとならないだろう。
慣れるまでは朝は大変そうねと結花は思った。
その良樹は、結花の言った通り、自分の部屋のセッティングに忙しかった。
小学校に通う五年生男子。
勉強も運動もそこそここなすが、どっちも得意というほどでもない。
むしろマンガやゲームが彼の興味の中心である。
現代的な普通の男の子といったところか。
まずは業者さんに机の位置を指示したり、ベッドの位置を指示したりした後、段ボールの中の本やゲームなどを本棚などに片付けなければならない。
もちろん教科書なども取り出して、学校にも行けるようにもしておかないといけない。
やることはたくさんあるのだ。
でも・・・
自分の部屋を持てたことは、何より良樹はうれしかった。
******
「ふう・・・」
思わずため息が出てしまう結花。
バタバタしていたが、とりあえず新居で迎える初めての夜。
なんだかんだと床の物をすみに寄せて寝る場所を作り、テレビを見られるようにして、食器棚に食器を片付け始めたら、もう一日が終わり。
最初から決めていたことではあったが、夕食はお弁当を買ってきて済ませるだけだった。
明日の日曜でどこまで片付けられるかわからないが、残りは全部私がやることになるのだろう。
明後日からは夫も良樹も会社や学校に行かなくてはならないのだから。
「やれやれだわ」
そう思ってベッドに入る。
隣では夫の博文がすでに寝息を立てていた。
その横顔にもやや疲れが見える。
今日は一日彼もたくさん働いた。
「おやすみなさい、あなた」
小声でそういい、笑顔を向ける結花。
これからはこの家のローンが彼の肩にかかってくるのだ。
落ち着いたら私も働きに出なくてはいけないだろう。
良樹にさみしい思いをさせるかもしれないが、なに、彼ももう五年生だ。
留守番ぐらいはできるはず。
近いうちに仕事を探してみようかしら。
そう思いながら眠りにつく結花。
その様子を暗闇の中から、じっと見つめている複数の目があった・・・
日曜日
「やっぱり何かあるのかしら・・・」
「どうした?」
不安そうにリビングに戻ってくる結花に、博文は顔を上げる。
日曜ということで、近所に引っ越しあいさつに行ってきたはずなのだ。
「それが・・・うちの両隣ともに空き家なのよ」
「ええっ? 本当かい?」
それは初耳だ。
片方だけならともかく、両隣もとなると何か気になってしまう。
「お向かいさんに聞いたんだけど、一年ぐらい前に出ていったらしいわ。それ以来空き家なんですって。やっぱり何かあるのかしら・・・」
不安そうに家の中を見渡す結花。
築年数がやや古いとはいえ、この家は結構いい家だとは思うのだが。
「まあ、たまたま・・・だろ。お向かいさんは何か言ってたかい?」
「いいえ、特には。にこやかに挨拶してくれたし」
「何か隠しているような感じは?」
「別に・・・なかったわ」
先ほどの会話を考えてみても、向かいに住む老婦人が特に何かを隠しているという感じではなかったのだ。
「じゃあ、やっぱり何もないんじゃないか? まあ、たまたまだろう」
博文にしても、せっかく思い切って買った家である。
何かあるとは思いたくない。
一年ぐらい空き家になることなど、近頃はそう珍しいことでもないだろう。
「そうよねぇ・・・」
結花もそう思いたいし、そうあってほしい。
せっかく買っておいた引っ越しの挨拶用のお菓子が、両隣分余ってしまうことになったが、まあ、みんなで食べればいいだろう。
「とりあえずキッチン周りはセットしたよ。そろそろお昼だし何か頼むよ」
「そうね。昨日お弁当と一緒にベーコンとタマゴも買ってきたから、ベーコンエッグでも作るわね」
「おっ、いいね」
博文がそう返事をしている間に、結花はもう冷蔵庫からタマゴとベーコンを取り出しにキッチンに行っている。
「きゃあっ!」
「どうした?」
すぐあとにキッチンから悲鳴が聞こえ、博文は思わず立ち上がる。
慌ててキッチンに行ってみると、床にへたり込んでいる結花の姿があり、その足元にはタマゴが割れていた。
「結花、わっ!」
思わず妻に駆け寄ろうとした博文の足元を、何か黒いものが通っていく。
「いやぁっ!」
妻の悲鳴にそう言うことかと察する博文。
結花の大嫌いなやつが出たのだ。
黒くてつやつやと光る虫。
そう、ゴキブリだ。
結花はゴキブリが大嫌いであり、足元を這い回られて思わず腰を抜かしてしまったのだろう。
何か叩くものはと博文が考える一瞬の隙に、ゴキブリはそのままキッチンの隙間へと消えてしまう。
「ちっ」
逃げられてしまったことに舌打ちをするが、それよりも結花の方が心配だ。
「大丈夫か?」
「あ、あなたぁ」
屈み込んだ夫の首にしがみつく結花。
「いやよぉ! ここゴキブリ出るぅ! 安かったのはこれなんだわぁ!」
グスグスと半泣きになっている結花に、博文は背中を撫でてやりながらも苦笑する。
「そんなわけないだろ。住宅なんてみんな築年数が経てば安くなるし、ゴキブリも出てしまうものさ。まあ、あとで殺虫剤買っておくから。あんまりひどいようなら業者頼んでもいいし」
「お願いよ。ゴキブリ出ないようにしてぇ」
「わかったわかった。ほら、立てるか?」
よいしょっと妻を抱き上げるようにして立ち上がる博文。
「パパ、ママ、どうしたの?」
そこへ良樹がやってくる。
おそらく結花の悲鳴を聞いて、何事かとやってきたのだろう。
「ゴキブリが出たみたいでな。良樹、悪いが床をきれいにしてくれるか?」
自分は妻を落ち着かせることに専念し、床の片づけを息子に依頼する。
「あー、そうなんだ。ママはゴキブリ嫌いだもんね。うん、わかった」
博文の指図に従って割れたタマゴを片付け始める良樹。
「ご、ごめんね。もう大丈夫」
やっと落ち着いたのか、結花が博文から離れ、良樹と一緒に床を片付けはじめる。
それを見て、博文もホッとする。
なにせ結花はゴキブリが嫌いなのだ。
まさかこの家にゴキブリがいるとは・・・
殺虫剤を切らしていたのはうかつだった。
明日にでも買ってこなくてはならないな。
******
「ほんっとにゴキブリは苦手なんだからね」
「わかったわかったって。明日会社帰りにでもゴキブリ用の殺虫剤買ってくるから」
布団に潜り込んでまでしがみついてくる妻を、博文はやさしく抱きしめる。
こういうときの妻はなんだかかわいらしい。
結局ゴキブリはあれから一度も出てこなかったものの、結花は一日中ビクビクオドオドしっぱなしだったのだ。
キッチンに行くにも博文か良樹が付いていかないとならないほどだったし、よほどショックだったのだろう。
前に住んでいたアパートでもたまに出ることはあったが、その時にはここまでの怖がり方はしていなかった。
おそらく新居に来たことで、もう出ないだろうと思っていたのかもしれない。
まあ、ゴキブリは確かに見てて気持ちのいい虫じゃないから、怖がるのもわかるんだけどなと博文は思う。
「明日からは会社だし、もう寝るよ」
「うん」
明かりを消し眠りにつく二人。
結花もとにかくゴキブリのことは必死に頭から追い払い、目を固くつぶる。
どうしてあんなに恐怖を感じたのか、今となっては自分でも変だとは思う。
前のアパートにいたときだって何度かゴキブリは目にしている。
でも、その時にはただおぞましさを感じただけだった。
だが、昼間のあのゴキブリを見た瞬間、結花はおぞましさばかりではなく、言い知れない恐怖のようなものを感じたのだ。
普通のゴキブリとは何かが違う。
そう本能的に感じたのかもしれない。
でも、どこがどう違うのかなど、結花にはわかるはずもない。
ただ、恐怖だけがいつもとは違っていた。
頭がぼんやりする。
寝ていたはずなのに、いつの間にか結花は闇の中に立っていた。
ここはどこだろう・・・
真っ暗な闇の中・・・
どこだかさっぱりわからない。
いったいここはどこなのか・・・
隣には夫の博文がいる。
そして結花は息子の良樹と手をつないでいる。
どこかに遊びに来たのだろうか?
結花の不安をよそに、博文も良樹も笑顔を浮かべているようだ。
ここはどこ?
そう夫に尋ねようとするが、その前に良樹が手を振りほどいて走り出す。
まるでデパートのおもちゃ売り場にでも来た時のようだ。
ゲームに目がない良樹は、よくこういうことをしてしまう。
もう・・・
危ないわよ。
転んだらどうするの?
おねだりしたって何も買わないわよ。
もう・・・すぐに何でも欲しがるんだから・・・
もうすぐ誕生日なんだから、それまで待ちなさい。
結花が言ってる間にも良樹は闇の中にいなくなってしまう。
しょうがないわね。
あなた、良樹をお願いね。
ついていてあげて。
でも、甘い顔をしたらダメよ。
あの子ったらおねだりすればいいと・・・
そう言おうと振り返ると、隣にいたはずの夫もいない。
あら?
どこへ行ったの?
あなた?
あなた?
一人で取り残される結花。
周囲がだんだんと見え始めてくる。
どうやらここはキッチンらしい。
いつの間にかキッチンにいるのだ。
どうして?
しかも越してきたばかりのこの家だ。
私はいったい?
なんでこんなところにいるの?
結花の足元で何かが動く。
キャッ!
見ると、足元に昼間のゴキブリがいた。
黒褐色の翅をてらてらと光らせ、長い触角をゆらゆらと揺らしている。
ひぃーっ!
思わず結花は叫び声をあげようとする。
だが声が出ない。
悲鳴を上げようと口を開けるのに、なぜか声が出てこないのだ。
ゴキブリは逃げようともせずに足元をうろついている。
それどころか結花に迫ってくるかのようだ。
いやっ! いやぁっ!
結花は少しでもゴキブリから遠ざかろうと足を動かす。
すると、動かした足に何かが当たる。
えっ?
見ると、足に当たった黒いものが転がっている。
それはすぐに六本の足をわさわさと動かし始め、起き上がろうともがきだす。
ひぃぃぃぃぃぃ!
足に跳ね飛ばされた別のゴキブリが、裏返った状態から起き上がったのだ。
さらにその周囲にはほかのゴキブリたちもいる。
床に蠢く数十匹のゴキブリたち。
それらがわさわさと近寄ってくるのだ。
い、いやぁぁぁぁぁっ!
結花は逃げた。
とにかく逃げた。
周囲は闇一色。
どこがどこかもわからない。
とにかく逃げるしかないのだ。
だが、どこに逃げても足元にはゴキブリがいた。
踏みつけるようなことはなかったが、少しでも足が止まると、その足にしがみつこうと寄ってくる。
いや、いやぁぁぁ!
結花は走る。
だが、走っても走ってもその先にはゴキブリがうじゃうじゃと蠢いている。
前も後ろも右も左もゴキブリの山だ。
あ・・・あああ・・・
気が付くと結花は追い詰められ、壁に背中を付けていた。
足元にはゴキブリが群れを成している。
いやぁ、いやよぉ!
足元からぞろぞろとゴキブリが這い上がってくる。
ひぃぃぃぃぃぃ!
背筋が凍るほどの恐怖。
やがてゴキブリたちは結花の躰を這い上がり、首のあたりにまで達してくる。
いやぁぁぁぁ!
ゴキブリたちの足の感触がざわざわと肌に伝わってくる。
ムワッとするような妙なにおい。
ゴキブリたちが放っているにおいなのだろうか?
それが結花の鼻を突く。
これは夢よ・・・
夢に違いないわ・・・
早く目覚めたい・・・
お願い!
目が覚めて!
助けてぇぇぇぇぇ!
やがて顔一面にまでゴキブリたちは這いあがり、結花は何も見えなくなった。
******
「結花! 結花!」
躰を揺さぶられる。
ゆっくりと目を開ける結花。
目の焦点が合うと、心配そうにのぞき込んでいる夫の顔がある。
「あなた・・・」
「だいぶうなされていたぞ。大丈夫か?」
うなされていた?
私が?
「ええ・・・大丈夫・・・だと思う」
夢でも見ていただろうか?
だいぶ汗をかいているようだ。
でも思い出せない。
何か夢を見たような気もするが、よくわからない。
「そうか。ならいいが、怖い夢でも見たかな?」
ハハハと笑う博文。
いつも気持ちよさそうに寝ている妻が珍しくうなされていたので心配になったのだ。
「ごめんなさい。起こしてしまったわね」
申し訳なさそうにする妻。
「いいさ、気にするな。大丈夫ならそれでいい」
博文はそう言って布団をかけ直す。
声をかけられて安心したのか、再び結花は眠りにつく。
自分ももうひと眠りしたほうがよさそうだ。
明日も早い。
いや、すでにもう今日か・・・
目を閉じる博文。
二人の眠るベッドの足元には、ゆらゆらと長い触角を揺らしている黒いつややかな生き物がいた。
月曜日
キッチンで朝ご飯の支度をする結花。
なんだか躰がだるい。
疲れが抜けていないのかもしれない。
昨晩はよく眠れなかった気がする。
夫に起こされた時も、うなされていたとか。
なにか夢を見たようだけど、どんな内容だったか全く思い出せない。
なんだか頭もぼうっとするわ・・・
「おはよう」
あくびをしながら博文がキッチンに顔を出す。
「おはよう。もうすぐできるから待っててね」
にこやかに返事をする結花。
「あ、ああ」
そう言って左右を見渡し、やがて顔を洗いに洗面所に向かう博文。
もしかしたら、以前の家の感覚でキッチンに顔を洗いに来てしまったのかもしれない。
てっきり朝ごはんの様子を見に来たと思ったのだが、そう考えれば、入ってきて一瞬戸惑っていたのもうなずける。
結花は思わず微笑んだ。
いつもと変りない朝。
家族がいる場所だけがこれまでとは違う。
ここは新しい家。
私たちは新たなここの住民。
以前からここに棲んでいるものたちに認めてもらえるようにしなくては・・・
えっ?
結花は何か違和感を覚える。
認めてもらうって・・・誰に?
******
「行ってきまーす!」
慌てたように駆け出していく良樹の姿を結花は見送る。
「行ってらっしゃい。道を間違えないでね。車に気を付けるのよ」
以前よりも10分早く家を出てもらうのは戦争だ。
寝坊助の良樹をたたき起こし、朝ご飯を食べさせて送り出す。
それだけのことがなんと大変なことか。
とはいえ、やっと良樹も学校へ行ってくれた。
あとは食事の後片付けをして、土日でたまった洗濯物を洗ってしまわねば。
それに段ボール箱の中のものの片付けも。
結花は一日の段取りを思い、玄関からリビングに向かう。
さっきより少し頭もすっきりしたのか、気分もよくなってきた。
鼻歌交じりで朝食の食べ終わったテーブルの上の食器を、下げるために重ねていく。
食器洗いには本当は食洗器があれば便利なんだろうけど、この家も買ったことだし、まだまだ先の話になりそうね。
そんなことを考えながら、重ねた食器を持ってキッチンに入ってくる結花。
「キャッ!」
足元に何かが触れた気がして、思わず手にした食器を落としそうになる。
見ると、足元に一匹のゴキブリがいた。
「ひっ!」
結花は思わず息をのむ。
黒く、油でも塗ったかのようなつやつやとした翅をもつ六本足の虫。
その長い触角がゆらゆらと揺れている。
「ひぃぃぃぃっ! あっちへ! あっちへ行って!」
結花はおぞましさに身震いしながら、なんとかどこかへ行ってくれないかと大声を上げて追い払おうとする。
できることなら誰かを呼んで退治してほしいけれど、残念ながら今は夫の博文も良樹も家にいない。
かといって、自分ではとてもじゃないけど退治するどころか触れることだってできそうにない。
どうしてこんな時にゴキブリが出てくるの?
いやぁぁ・・・
助けてぇ・・・
結花が恐怖に固まっているのを見透かしたかのように、ゴキブリは全く動こうとはしない。
ただその触角をゆらゆらと揺らしている。
えっ?
その触角の動きが、なぜか結花の目を引き付ける。
なぜか目をそらせなくなってしまったのだ。
どうして?
ゴキブリなんて見たくないのに・・・
どうして?
ゆらゆらと揺れる長い触角。
そのリズミカルな動きが結花の目をとらえて離さない。
ゆらゆらゆらゆら・・・
なんだかまた頭がぼうっとしてくる。
結花の目が虚ろになっていく。
頭の中に白く靄がかかってくるような感じ。
今何をしていたのか、これから何をしようとしていたのかも思いだせなくなってくる。
あ・・・れ・・・
わ・・・たし・・・は・・・
ど・・・う・・・して・・・
虚ろな目でゴキブリを見つめている結花。
頭がぼんやりして考えがまとまらない。
まるでなにか考えることを無理やり止めさせられてしまったかのようだ。
立ち尽くす結花がゴキブリを見つめている。
先ほどまでがくがくと震えていた手も、今は食器を持って固まったまま。
まるで意思を無くした人形のように見える。
ただ、その目はじっとゴキブリの触角を見つめていた。
しばらくして、ゴキブリは触角を揺らすのをやめる。
それと同時に結花の目が触角から解放される。
スッと顔を上げ、何事もなかったかのように手にした食器をシンクに運ぶ結花。
食器を洗わなくてはならない。
食器を洗って片付けてしまわなければ。
結花はいつも通りに皿に残ったトーストのパンくずを捨てようと思い、皿を傾けて床に撒き散らす。
いつもならパンくずなど、シンクの三角コーナーに入れるか、そのまま洗剤をつけて洗い流してしまうのだが、なぜか今日は床に撒いてしまったのだ。
まるでそれが当たり前のことであるかのよう。
そして、そのことに気が付いていないかのように、結花は皿を元に戻す。
彼女の足元には、先ほどから一匹のゴキブリがいる。
その長い触角がゆらゆらと揺れていた。
結花はゴキブリを見ても何の反応もしない。
彼女の中からは恐怖も嫌悪感も消えていた。
皿のパンくずを床に撒くことも、なにもおかしなこととは思わない。
彼らに食事を供するのは彼女の務め。
彼らを怖がったり、嫌ったりすることもあり得ない。
彼らがここにいるのは当たり前。
彼らはこの家に棲むものたち。
先に棲んでいるものたちなのだ。
新しくこの家に住む彼女は、彼らに礼を尽くさなくてはならない。
彼らこそ、この家を支配するものたちなのだから。
「どうぞお召し上がりください」
結花は抑揚の無い声でそう言って、二枚目の皿、良樹の食べ終わったトーストの皿からも、残ったパンくずを床に撒いていく。
指で払い落とすようにして綺麗にパンくずを落していく結花。
その様子をまるで見ているかのようにゴキブリはじっと動かない。
「はい・・・私は・・・私はこの家に新しく越してきたメスです・・・どうぞ・・・よろしくお願いします」
まるでゴキブリに語り掛けているかのような結花の言葉。
彼らに挨拶するのだ。
彼らとともに暮らしていくのだから。
何も考えないままに食器を洗って後片付けをする。
その間に、床に散らばったパンくずの周りには数匹のゴキブリが集まってきていた。
パンくずを食べに集まってきたのだろう。
結花はその光景に表情を変えることもなく、無言で水気を拭いた食器を食器棚へと戻していく。
一通り食器洗いを終えた結花は、そのままキッチンで立ち尽くす。
まるでなにか次の命令を待つロボットのようだ。
何かをするという意識が働かない。
頭がぼうっとして何も考えられないのだ。
ただ、“次の命令”を待っているのだ。
パンくずを食べていたゴキブリたちが結花の足元にやってくる。
そして、いっせいに触角を揺らし始める。
ゆらゆらゆらゆらゆらゆら・・・
規則正しく同じ方向に揺れていくゴキブリたちの触角。
結花の目がそれを追う。
無言で立ち尽くし、彼らの触角を見つめているのだ。
その目は先ほどと同様に虚ろで光がなかった。
やがて結花はキッチンを出る。
そのままリビングも抜け、階段を上がって寝室に行く。
眠らなくては・・・
なぜかわからないが眠らなければならない。
より深く・・・
より深く受け入れるのだ・・・
彼らを・・・
彼らをより深く・・・
寝室に戻ってきた結花は、そのままベッドに寝転がる。
目をつぶって寝ようとしたが、このままでは明るすぎることに気が付く。
なぜそう思ったのかわからないが、明るすぎるのだ。
結花は一度起き上がり、カーテンを閉める。
「これでいかがでしょう?」
誰にたずねるでもない結花の言葉。
だが、遮光カーテンとはいえ、外の明るさを消すことはできない。
ベッドの上ではダメ・・・
まだ明るすぎるし、開放的すぎる・・・
もっといいところは・・・
結花は床に這いつくばると、そのままベッドの下へと躰を押し込んでいく。
本来なら収納ボックスなどを置いているスペースなのだが、引っ越してきたばかりで、まだ収納ボックスを置いていなかったのだ。
ここなら・・・
ベッドの下に潜り込んだ結花は、そこが暗くてひんやりとしてとても居心地がいいことに気が付いた。
入るのにやや苦労するが、一度中に入ってしまうと少し余裕があり、躰を収めるのにちょうどよい。
ここならゆっくり眠れる。
それに・・・
ここならよいと彼らも感じている。
結花はホッとして、ベッドの下で躰を丸め、眠りにつく。
その周囲には、いつの間にか長い触角を揺らしたゴキブリたちが集まっていた。
******
「えっ? あら?」
結花は驚いた。
目が覚めたら、なんとも狭苦しい場所にいたのだ。
薄暗く、目の前にすぐ天井のような板がある。
一瞬ここがどこなのかさっぱりわからなかったが、どうやらベッドの下で寝ていたらしい。
「ええ? ど、どうして?」
とにかく外に出ようとベッドの下から這い出す結花。
なぜこんなところに潜り込んだのか、まったく覚えがない。
「どうして? どうして私ベッドの下になんか入っていたの?」
這い出してからも思わずベッドを見返してしまう。
寝るならベッドの上で寝るのが普通のはずなのに、ベッドの下に潜り込んでいたなんて・・・
「なんのにおいかしら・・・」
鼻ににおいを感じる。
服から漂ってくる臭いような妙なにおい。
もしかしたら汚れのにおいかもしれない。
幸い引っ越ししてきてすぐなので、床にホコリがたまっているようなことはなかったものの、以前の家で今までも使っていたベッドだから、裏側の汚れが服に付いてしまっている。
これのにおいだろうか・・・
それにちょっと何かべたつく感じもする。
ベッドの下になど潜り込んだから、クモの巣のようなものでも付いたのかもしれない。
もしかしたら髪の毛あたりにも付いているかも・・・
とりあえずシャワーを浴びなくては。
結花はシャワーを浴びて汚れを洗い流す。
それにしても、どうしてあんなところで寝ていたのだろう。
何度考えてみても不思議だ。
ベッドの下で寝るなんてありえないのに・・・
寝室に行ったことすらさっぱり覚えていないなんて・・・
「ふう・・・」
シャワーを浴びてすっきりしたらもうお昼。
気付けば午前中は寝て過ごしてしまったことになる。
引っ越しでまだ片付いていないものもあるし、洗濯は明日に回すことにしよう。
お昼を手軽にカップ麺で済ませ、洋服の整理だの段ボールの中身を出したりなどとしていると、早くも良樹が帰ってくる時間となる。
ちゃんと前の家に間違えて行ったり、道に迷ったりせずに帰ってこられたらしい。
よかったと思わず顔がほころんでしまう。
「ただいまー」
「お帰りなさい」
玄関に出て良樹を出迎える結花。
またいつもの平日の夕方が始まるのだった。
良樹におやつを出し、夕食の支度を終えるともう外は暗い。
先に良樹には晩御飯を済まさせ、結花は夫の帰りを待つ。
晩御飯が終わった良樹は早々に二階の自分の部屋に行ってしまう。
できれば勉強でもしてほしいところだけど、おそらくゲームでもやっていることだろう。
まあ、タイミングを見計らって言い聞かせればいいのかもしれない。
引っ越しには良樹も結構大変だっただろうから。
「ただいまぁ」
しばらくすると夫の博文が帰宅する。
「お帰りなさい」
結花は玄関まで出迎え、夫のカバンを受け取ろうとする。
そのカバンと一緒に差し出される、ドラッグストアのレジ袋。
「ゴキブリ用の殺虫剤、忘れずに買ってきたよ」
博文がにこやかに微笑んでいる。
だが、結花はその言葉に、まるで鈍器で殴られたかのような衝撃を感じてしまう。
ゴキブリ用の殺虫剤。
それがなんだかとても汚らわしく恐ろしいものに感じたのだ。
どうしてなのか結花にもわからない。
ただ、むかむかするほどの嫌悪感を感じてしまうのだ。
「結花?」
「えっ?」
「どうしたんだい、ぼうっとして? もしかしてまた出たのかい?」
「あっ、いえ・・・」
慌てて首を振る結花。
確かに今日はゴキブリを見かけた記憶はない・・・
朝の件は結花の記憶からは消えていた。
それになぜかわからないが、もしゴキブリが出たとしても、夫にそのことを知らせようとは思わなかった。
彼らを駆除させたくはないのだ。
「そうか、それならいいんだけど、なんだったら、今から撒くかいそれ?」
背筋がぞっとする。
もしこんなものを撒かれたりしたら・・・
「いやっ!」
思わず受け取ったカバンとレジ袋を突き返してしまう結花。
「えっ?」
「あ・・・い、いいわ。あとで私が撒くから。今はキッチンに晩御飯の用意がしてあるし・・・そうだ、先にお風呂にどうぞ」
自分のしたことにハッとする結花。
驚いている博文から慌ててまたカバンとレジ袋を引き寄せる。
私・・・どうして?
買ってきてと頼んだのは自分だったような気もする・・・
だが、手にしているレジ袋の中身のゴキブリ用殺虫剤が、どうしてもいやでいやでたまらない。
吐き気がしそうなぐらいなのだ。
どうしてこんなものを博文さんは買ってきたのだろう。
すぐにでもどこか目につかないところに隠してしまわなくては・・・
夫が風呂に入っている間に、結花はゴキブリ用殺虫剤を戸棚の奥にしまい込む。
こんなもの・・・こんなもの・・・こんなもの・・・
中の物をかき分けて奥に押し込み、手前にも物を置いて隠してしまう。
二度と見たくない・・・
どうしてそんなふうに思うのかさっぱりわからないが、とにかくいやなものはいやなのだ。
とりあえずこうしておけば、博文さんにも良樹にも見つからないだろう。
ほとぼりが冷めたころに処分してしまえばいい。
こんなものを撒かれたら大変なことになってしまうわ。
夫に食事を出し、自分も食事を済ませると、結花の心も落ち着いてくる。
さっきのはいったい何だったのだろう・・・
だが、殺虫剤のことなどもう思い出したくもない。
ゴキブリたちのことは博文さんには知らせないようにしよう・・・
そうじゃないと別な駆除剤まで買ってきてしまうかもしれない。
せっかくのこの家が住みづらくなってしまうわ・・・
住みづらく・・・
殺虫剤を撒くと・・・ゴキブリが住みづらくなってしまう・・・
殺虫剤は撒く必要はない・・・
彼らにもこの家に住んでもらわねばならない・・・
彼らにも・・・
彼らはこの家に棲んでいるのだ。
駆除することなど考えてはいけない。
むしろ彼らこそ、この家に先に棲んでいるものたちなのだから、自分たちの方が新参者として受け入れてもらわねばいけない・・・
食事の後片付けをしにキッチンに入る結花。
その足元を黒い小さな影がよぎる。
「キャッ!」
一瞬驚くが、それがゴキブリだと気が付くと、結花の心がスッと落ち着く。
あら?
私・・・ゴキブリが怖くなくなっている?
ゴキブリを見ても恐怖や嫌悪感を感じなくなっていることに気が付く結花。
それどころか、なんとなくホッとしたような気持ちすら感じてくるのだ。
不思議・・・私・・・いったい?
なぜ感じなくなったのだろうという気はするが、別におかしいとは思わない。
むしろ今まで彼らを毛嫌いしていたことの方がおかしいのかもしれない。
これからは彼らと一緒に暮らすのだから。
それに・・・
こうしてよく見れば、黒褐色でつややかな翅は見ようによっては美しいと言えないこともないし、長くゆらゆらと揺れている触角は、何かを結花に語り掛けようとしているかのようにも見える。
「うふふ・・・あんまり驚かさないでくださいね」
結花はゴキブリに語り掛けるようにいうと、食器をシンクに持っていく。
「なんだい? また出たのかー?」
リビングから聞こえてくる博文の声。
「いいえ、なにも出てはいないわ。ちょっとお皿を落としそうになっただけ」
結花は自然とそう答えていた。
後片付けだのなんだかんだとやっていると、あっという間に時間が過ぎる。
夫の博文はもう寝室に行ってしまった。
明日の朝食の確認をして、結花も寝室へと向かう。
寝室に入ると、ベッドの博文さんは、どうやらもう夢の中。
私も寝なきゃ・・・
結花もパジャマに着替え、ベッドに入ろうとする。
ふとベッドの下の隙間に目が行ってしまう結花。
あ・・・
結花の心に奇妙な欲求が沸き起こる。
あそこに入りたい・・・
ベッドの下に入りたい・・・
闇に包まれた狭い空間。
ひんやりとした優しい空間。
ベッドの上に横になるなんていや。
ベッドの下に入りたい。
ベッドの下で眠りたい。
その思いがどんどんと膨らんでいく。
結花は思い切って床に這いつくばると、もぞもぞとベッドの下へと潜り込む。
ああ・・・
なんて狭くて気持ちがいいのだろう・・・
とても落ち着く気がするわ・・・
ああ・・・
最高・・・
おやすみなさい・・・
ベッドの下で躰を丸めて眠る結花。
その周囲にごそごそかさかさと動くものが現れる。
黒褐色の翅をつややかに輝かせ、長い触角をゆらゆらと揺らしている六本足の生き物たち。
それが次第に数を増し、ざわざわと結花の周りを取り囲む。
やがてゴキブリたちは、結花が目を覚まさないように気を付けながら、結花のパジャマに這い上っていく。
彼女の肌に直接触れぬよう、パジャマの上だけを歩き回るゴキブリたち。
そしてそこかしこに躰をこすりつけ、パジャマに何かを塗りつけていく。
カサカサ・・・カサカサ・・・
ゴキブリたちはしばらく動き回って、結花のパジャマにたっぷりと自分たちの痕跡を残すと、静かに闇の中へと消えていった。
(続く)
- 2020/07/17(金) 21:00:00|
- ゴキブリの棲む家
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