グラント大統領の宣言に基づき、合衆国陸軍はインディアン討伐作戦を開始しました。
陸軍大臣シャーマンはシェリダンに対し作戦立案を命じ、シェリダンはそれに答えて三方からインディアンの居留地であるモンタナ州南東部を包囲する作戦を立案。
これによればテリー将軍麾下の部隊が東側から、ギボン将軍の部隊が西から、クルック将軍の部隊が南から接近し、イエローストーン川とローズバット川の合流地点付近にあるスー族の拠点を攻撃するという手筈でした。
一時期グラント大統領に対する汚職証言問題で対立していたカスターは、このうちのテリー将軍の麾下の第七騎兵隊指揮官として配属されましたが、名誉少将という肩書きは失われ、ただの騎兵中佐としての参加でした。
そのため、以前も書いたように過去の栄光を取り戻そうという焦りもあったのかもしれません。
1876年6月、合衆国陸軍の各部隊のうち、テリー将軍の部隊とギボン将軍の部隊は予定通りスー族の居留地付近に集結。
スー族に対する討伐作戦を開始しようとしておりました。
しかし、もう一つの部隊であるクルック将軍の部隊は、このときすでにオガララ族インディアンと交戦し、後退を強いられておりました。
クルック隊の合流はなりませんでしたが、テリー将軍とギボン将軍はこのままインディアンに対する討伐作戦を続行することを決め、6月26日をもって攻撃を開始することにいたします。
そのため、カスターの第七騎兵隊は南方にある川の川上に配置されることとなり、カスターは移動を開始します。
このときギボン将軍がカスターに対し、「カスター君、あんまり欲張るんもんじゃないよ。インディアンは何しろたくさんいるからね」と言ったといわれます。
事実、政策会議と「サン・ダンス」のために終結していたインディアンたちの数は予想以上に多いものでした。
当時合衆国陸軍には協力的なインディアン部族もおり、彼らは偵察や斥候として軍事行動に貢献してくれておりました。
カスター隊にもこういったインディアンの協力者たちがおり、彼らの偵察の結果、集結しているインディアンたちの数がかなり多いことはわかっていたのです。
彼らは相手の数が多いことを何度もカスターに忠告しましたが、カスターをはじめ上層部はこれをあまり真剣には捉えていなかったのかもしれません。
6月25日、カスター隊はインディアンの野営地のそばにまで進出しました。
そこはインディアンが油っこい草の川(グリージーグラス川)と呼ぶ川のほとりで、白人はリトルビッグホーン川と呼ぶ川でした。
カスター隊の動きはインディアン側でも把握しており、戦いに備えよという伝令が回っておりました。
ただし、カスター隊が約700と比較的少数と言うこともあり、本隊が別にいるかもしれないと見て、行動は慎重にするようにという指示も出されておりました。
一方カスター隊では副官のマーカス・リノが相手の多さから「慎重にいくべきです」と進言しておりましたが、カスターは功に逸ったのかこの進言を退けます。
さらにカスターは、敵より少ない味方をさらに三隊に分け、リノとベンティーンの二人の将校に指揮を任せると、自分は本隊約200名を指揮し、リノ隊に渡河して威力偵察をするように命じます。
リノ隊はカスターの命に従い、ハンクババ族のキャンプを襲撃しました。
しかし、この攻撃に対してインディアンたちは直ちに反撃を開始。
リノ隊は多勢に無勢となり、すぐに身動きが取れなくなってしまいます。
リノ隊がインディアンたちと戦っている間にカスターは自らの部隊を率いて川の東側からインディアンたちに接近していきました。
そして他のテリー将軍やギボン将軍の部隊が来る前に、単独で突撃を開始してしまいます。
しかし、これはやはり無謀でした。
多数のインディアンがこれを迎え撃ち、カスター隊はインディアンたちの中に孤立することになってしまったのです。
本来別行動のリノ隊はあくまで威力偵察のはずでした。
敵の配置を探り、攻撃に対してどのように対応してくるかを探るのが目的です。
しかし、カスターはそのリノ隊を挟み撃ちのための片方として、自らもう片方となるべく攻撃をしたようです。
挟み撃つべきはさみの片方の刃であるリノ隊が身動きが取れなくなっている以上、もう片方のはさみの刃も物を切ることはできません。
カスター隊も周囲を囲まれ身動きが取れなくなりました。
彼らは何とかこの窮地を突破するしか道はありませんでした。
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- 2013/10/18(金) 21:08:56|
- カスター隊の壊滅
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