陸軍中佐として第7騎兵隊の指揮官となったカスターは、ほどなく名誉少将に昇進し、「対インディアン戦闘」に従事することになりました。
この当時、アメリカでは中西部に入植する白人とインディアンとの軋轢がすでに「インディアン戦争」と呼ばれるまでに発展しており、陸軍はインディアンとの戦闘を数多く行っていたのです。
カスターはシェリダン将軍の命の下でスー族やシャイアン族といったインディアン部族と戦っておりましたが、彼自身はこの戦争にさほど乗り気ではなかったようで、勝手に軍務を離れて家に帰ってしまったりしたこともあったようです。
このことは陸軍としては当然問題視されましたが、シェリダン将軍はカスターを対インディアン戦闘に必要と考えており、刑罰を免れることになったようでした。
ところがそんな行動を取ったほどのカスターは、1868年11月27日、現在のオクラホマ州の西部に位置するワシタ川という川の流域に野営していたシャイアン族内の和平派ブラック・ケトル酋長の率いる一行を襲撃します。
この戦闘はカスター隊によるほぼ一方的な虐殺となり、女子供を含む一行は全滅。
ブラック・ケトル酋長も妻とともに殺されました。
この戦いはシャイアン族の土地を占領する目的で行われたといわれ、「インディアン戦争」におけるアメリカ陸軍の最初の勝利として宣伝されました。
そのため、カスターはほぼ女子供を含むほぼ無抵抗の一行を虐殺したにもかかわらず、シェリダン、シャーマン両将軍からは褒められ、白人社会では英雄として再び脚光を浴びたのです。
そして、この「ワシタ川の虐殺」以降、合衆国政府はインディアンとの交渉を打ち切り、保留地に入ろうとしないインディアンに対しては容赦なく軍事的に攻撃をするようになっていきました。
1873年、カスターはダコタの鉄道敷設を妨害するスー族と交戦。
翌年にはインディアンが聖地として崇める「ブラックヒルズ」に侵入し、そこに金鉱があることを発見します。
それほど多くの量の金があるわけではなかったようですが、目立ちたがりのカスターはこのことを誇大に報告し、注目を集めようとしました。
はたしてカスターの報告に飛びついた人々が「ブラックヒルズ」に押し寄せ、その人々が踏み荒らした道は「カスター道」とまで呼ばれるほどでした。
ブラックヒルズはそこがインディアンとの間に結ばれた不可侵条約の地であったにもかかわらず、金鉱開発のために条約は全く無視されることになったのです。
ブラックヒルズを踏み荒らす白人に対し、当然インディアン各部族は怒りに燃えて襲撃を加えました。
時の大統領はジョンソンのあとを継いだ南北戦争の北軍総司令官グラントでしたが、彼はブラックヒルズ一帯を占領するために強い態度で臨み、1876年1月31日までに指定居留地に移住しない場合、スー族とアラバホ族を殲滅すると宣言します。
グラント大統領とカスターは、一時期グラントの汚職問題に関する証言などで対立していたこともありましたが、このときもやはりシャーマンとシェリダンがカスターの後ろ盾となり、カスターは第7騎兵隊の指揮官職を続けることができました。
グラントもまた、結局のところカスターの能力は対インディアン戦に必要とみなし、彼をクビにはできなかったのです。
そして1876年5月17日、グラント大統領は期限切れとみなしてインディアンに対する軍事行動を発令し、カスター率いる第7騎兵隊を先発隊としてエイブラハム・リンカーン要塞から出撃させました。
カスターもまたこの戦闘でスー族を壊滅させることができれば、再び英雄として名声を得るチャンスと考えておりました。
一方たび重なる白人たちの暴虐に対し、今後の対白人政策と宗教的行事「サン・ダンス(太陽の踊り)」を行なうためスー族やシャイアン族、アラバホ族などのインディアン各部族が「リトルビッグホーン」という名の川のほとりに集まっておりました。
彼らは特にこれから白人と戦おうとして集まったのではなく、上記したように政策の会談と宗教的行事のための集まりではありましたが、各部族が集まったことで、必然的に数多くのインディアン戦士も集まることになりました。
その中にはシッティング・ブルやクレイジー・ホースといった有名な戦士たちもおりました。
カスター隊はそんな場所に向かって進んでいたのです。
今まさに、「リトルビッグホーンの戦い」と呼ばれる戦闘が始まろうとしておりました。
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- 2013/10/15(火) 21:05:47|
- カスター隊の壊滅
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