昨日まで一番艦「松」を中心に「松」型駆逐艦をご紹介しましたが、今日は「竹」。
駆逐艦「竹」は、やはり松竹梅の並びからか、「松」型駆逐艦の二番艦として昭和18年(1943年)10月に建造が開始され、翌昭和19年(1944年)6月に就役しました。
主要目は同型艦である一番艦「松」と変わらず、公試排水量約1500トン、最大速力27.8ノット、武装も同じです。
就役後は訓練部隊で訓練を行なったのち、同型艦の「松」「梅」「桃」などとともに第四十三駆逐隊を編成。
各地に対する輸送作戦に参加し、戦闘にも参加しておりました。
そのころ、日本陸海軍は劣勢に追い込まれ、戦場もソロモン諸島やニューギニアからフィリピンへと移りつつありました。
日本軍はフィリピンでの決戦場に首都マニラのあるルソン島に設定し、ここに陸海軍の兵力を集中して米軍を迎え撃つつもりでした。
しかし、思わぬ事態が起こります。
米軍機動部隊がフィリピン戦に先立ち、日本軍の航空部隊を撃滅しようとして台湾沖に襲来しましたが、その米軍機動部隊が日本軍の航空部隊の逆襲によって壊滅したのです。
米軍は空母六隻以上を失い、そのほかの艦艇も壊滅的打撃を受けたとの報告でした。
もちろんこれは誤報でした。
日本の航空部隊は確かに米軍機動部隊を襲撃しましたが、不慣れな夜間攻撃などを行ったこともあり、実際の戦果はわずかに巡洋艦二隻を損傷させただけでした。
ですが、日本海軍がこの誤報を発表してしまったために、陸海軍でルソン島で決戦しようと決定していたはずが、その前に米軍が来襲すると予想されるレイテ島に兵力を移動し、レイテ島で決戦をしようと変更になったのです。
「竹」はこのルソン等からレイテ島への兵力輸送作戦である「多号作戦」に参加することになりました。
この「多号作戦」はルソン島のマニラから、レイテ島のオルモック湾へ陸軍部隊を輸送する作戦で、数次にわたって行なわれました。
第一次、および第二次輸送は成功裏に終わりましたが、第三次からは米軍機の空襲を受けるようになり、大きな被害を出すようになって行きます。
「竹」はこの第三次輸送および第五次輸送に参加。
第五次作戦で損傷を受けたものの生き残り、乗組員たちの間では「竹」は強運の艦であると噂が広まりました。

第五次作戦で受けた損傷を応急修理した「竹」は、昭和19年(1944年)11月30日、第七次輸送作戦に参加します。
このときは同型艦の「桑」と一緒でした。
一方米軍はこのとき空襲に加え、潜水艦や水上艦による妨害も始めており、ザーム大佐率いる駆逐艦三隻(アレン・M・サムナー、クーパー、モール)が輸送部隊撃破のためにオルモック湾へ向かっておりました。
航海の途中、「竹」は搭載していた魚雷が一本事故で投棄せざるを得なくなり、四本しかない魚雷が残り三本になってしまいます。
12月2日の夜、輸送隊はオルモック湾に進入し物資揚陸を開始します。
このとき米軍の駆逐艦三隻が現れ、周囲を警戒していた「桑」に発見されました。
米軍駆逐艦は「桑」を集中砲撃し、「桑」は命中弾多数を受け沈没。
米軍は次の目標を「竹」に定めます。
「竹」は単艦で米軍駆逐艦と交戦し、魚雷を発射。
この魚雷が見事に駆逐艦「クーパー」に命中し、「クーパー」は船体が真っ二つに折れて轟沈しました。
「竹」はその後も戦闘を続け、命中弾をいくらか受けたものの、沈没は免れます。
米軍も「竹」の奮戦でいくつかの命中弾を受け、それ以上の交戦を断念。
南方へと去りました。
「竹」は一時損傷から30度ほども傾くほどでしたが、無事にオルモック湾を離れ12月4日にはマニラへと帰着しました。
そして損傷修理のために日本へと戻ります。
無事に日本に戻った「竹」は修理を受け、昭和20年(1945年)4月には戦列に戻りましたが、以後は温存策をとられ本土決戦に備えましたが、その日がくることはなく、行動可能な状態のままで終戦を迎えました。
戦後は復員作業に従事したのち、1947年に英国へ賠償として引き渡され、解体されて一生を終えました。
ちなみに「竹」による「クーパー」撃沈は、日本海軍駆逐艦が魚雷で敵艦を沈めた最後の例となりました。
一言で言って文中にもありましたとおり運のよかった艦だと思います。
小型の簡易型駆逐艦でしたが、最後には魚雷で敵艦を沈めるという駆逐艦としては最高の戦果を上げることもできましたし、何より生き残ったのですから。
いい一生だったのではないでしょうか。
それではまた。
- 2013/01/15(火) 21:03:45|
- 趣味
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2