もう松の内は過ぎてしまいましたが、お正月ですので松竹梅を取り上げます。
と言っても、私の趣味の世界での松竹梅ですが。
昭和17年(1942年)にはじまった日米によるガダルカナル島の攻防戦は、日本海軍にとっては予想もしない戦いとなりました。
堂々とした主力艦同士が砲撃戦を持って雌雄を決する決戦ではなく、島嶼に布陣した陸兵にたいする補給とそれによる消耗戦というものだったからです。
日本海軍はそもそも米艦隊と決戦を一戦して勝利するために作られてきました。
そのためには空母でさえ主力ではなく、戦艦同士の砲撃戦を有利にするための前哨戦を戦うべきものでした。
(制空権を取ることで敵艦に対する航空機による砲撃観測が行なえる)
ワシントン、ロンドンの二度の軍縮条約で主力艦(戦艦)の割合がアメリカよりも低く抑えられた日本は、なんとしても決戦前にこの比率を五分にしなければなりません。
そのために巡洋艦や駆逐艦で夜襲をかけ、魚雷で米戦艦をしとめて減らしておく予定だったのです。
当然日本海軍の駆逐艦はそれに応じた仕様で建造されました。
高速を発揮し、航続力にすぐれ、強力な魚雷を何本も積む。
これが日本の駆逐艦でした。
ですが、ガダルカナル島の攻防戦では、そんな駆逐艦に予定外の任務を与えざるを得ませんでした。
島にいる陸兵たちへの補給任務です。
本来ならこうした補給物資の輸送はそれ専用の輸送船舶が充てられるのが普通です。
しかし、ガダルカナル島の飛行場を奪われ、島付近上空の制空権を握られ、それを取り返すこともできない状況のまま補給を行なわざるを得なくなります。
そうなれば鈍足の輸送船舶は米軍航空機のいい目標でしかありません。
多くの輸送船がガダルカナル島にたどり着けないまま沈められました。
やむなく優秀な高速輸送船も使用しましたが、高速と言っても普通の輸送船に比べてというだけの話で、どんなにがんばっても20ノットがせいぜいであり、そうなると米軍航空機の制空権内のどこかで昼間を過ごさなくてはなりません。
昼間の航行中に見つかれば、高速輸送船も空襲にはかないません。
こうして高速輸送船でも補給はできなくなりました。
こうなると、高速輸送船よりももっと高速な船で米軍航空機の制空権内を夜間のみで走り抜けなくてはなりません。
夜間は空襲の心配がないからです。
しかし、そんな高速な船となると何があるでしょうか。
駆逐艦しかなかったのです。
日本海軍は背に腹はかえられず、艦隊決戦用に建造してきた高価な駆逐艦を投入するしかありませんでした。
各駆逐艦は魚雷を下ろし、補給物資をつめたドラム缶を載せてガダルカナル島に向かいました。
そしてガダルカナル島の沖合いでこのドラム缶を投入し、陸側から引っ張ってもらう補給方法しか行えなかったのです。
これは「ねずみ輸送」と呼ばれ、多くの駆逐艦が投入されました。
しかし、昼間の空襲を避けることはできたものの、今度は米軍の水上艦艇との戦いが起こりました。
そのうちの何度かには勝利し、何度かは敗北するなどし、さらには出発や帰着時などの空襲により、多くの駆逐艦が損傷し、沈没していきました。
高価な駆逐艦をこのような形で失っていくことは、全く割に合うことではありませんでした。
そしてそれ以上に、日本国内の造船能力では、こうした艦隊決戦用の駆逐艦を失った分だけ補充するということが全く不可能だったのです。
そのため、日本海軍はこうした輸送任務や船団護衛などに適した簡易に大量生産できる小型駆逐艦を量産しようと考えます。
艦隊決戦にはやや不向きとはいえ、艦隊決戦にも使え、護衛任務にも輸送任務にも使える簡易駆逐艦の大量生産というのは、日本海軍の歴史上でも特異なことでした。
こうして建造を開始されたのが「松」型駆逐艦でした。
- 2013/01/13(日) 20:58:53|
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