「セント・オールバーンズの戦い」で勝利を得たヨーク公側でしたが、その後国王と王妃らによる巻き返しにより、その成果はほとんどが失われることになりました。
それに伴い、両派閥にかかわるネヴィル家とバシー家の争いなどが再開され、再びきな臭い空気がイングランドに漂い始めます。
時を同じくして、イングランド沿岸ではフランス人海賊などの被害が増加しており、住民はその対策を国王に期待しましたが、国王ヘンリー6世はフランスとの関係悪化を望まなかったのか、何もしませんでした。
そのため、大陸側の対岸であるカレーを治めるカレー総督となっていたウォリック伯リチャードは、海賊行為から商人を守ろうとする動きを見せたため、商人たちの人気を集めるようになっておりました。
1458年、このままではまたしても戦いになると危惧したカンタベリーの大司教が両派の和解を仲介しようとしましたが、両者とも大司教の前では和解を受け入れたものの、すぐににらみ合いは再開してしまいます。
そして、海賊取締りに加え、自らがハンザ同盟やスペインの商船を攻撃するような行為を行なっていたウォリック伯を国王が査問のために召還しようとしましたが、これを自らを害する行為とみなしたウォリック伯が拒否。
ヨーク公らも大評議会への参加要請を受けましたが、これも赴けば逮捕されかねないとして拒絶。
ついに再び軍勢を集結させ始めました。
1459年、ウェールズ地方のラドローに集結したヨーク公の軍勢に対し、ヘンリー6世も軍勢を差し向けます。
途中ヨーク公と合流するべく行動していたソールズベリー伯の軍勢と遭遇、一戦を交えるものの逆にソールズベリー伯の軍勢に敗退してしまいます。(ブロア・ヒースの戦い)
ヘンリー6世はやむを得ずいったん後退し、軍勢を立て直します。
それに対してソールズベリー伯の軍勢と合流したヨーク公は、ヘンリー6世の軍勢を討つべく進軍しましたが、戦力を立て直したヘンリー6世の軍勢が予想以上に強大なことを知り愕然としました。
今度はヨーク公側が自軍の拠点たるラドローまで後退。
近くのラドフォード橋でヘンリー6世の軍勢と対峙します。
この戦いはのちに「ラドフォード橋(ラドフォードブリッジ)の戦い」と呼ばれますが、戦いとは名ばかりのようなもので、自軍の少なさに勝ち目はないと判断したカレー軍司令官トロラップが部下の軍勢丸ごと率いてヘンリー6世に寝返るという事態が発生。
ますます兵力差が開いたヨーク公側は、司令官たるヨーク公が息子やソールズベリー伯らとともに夜中に脱出してしまうと言うとんでもない状況に陥り、朝になって司令官の脱出を知ったヨーク公の軍勢が自然と瓦解してしまったと言うものだったようです。
戦場を逃れたヨーク公でしたが、この戦いでの敗北は大きな痛手でした。
ヘンリー6世を中核とするランカスター家はこれでますます勢いを増し、ヨーク公側についた貴族は次々と反逆罪で称号や領地を奪われていきました。
もちろんヨーク公やウォリック伯も例外ではなく、彼らの称号も領地も取り上げられることになりましたが、ヨーク公もウォリック伯も領地や任地で抵抗し、力づくで領地を取り上げるまでにはいたりませんでした。
1460年、ヨーク公らは反撃を開始。
ウォリック伯とソールズベリー伯、それにヨーク公の長男マーチ伯が奇襲をかけ、海路から上陸してロンドンを制圧します。
驚いたのはコベントリーの宮廷にいたヘンリー6世たちでした。
ヘンリー6世はすぐさま軍勢を集めて南下し、ウォリック伯の軍勢と対峙します。
折からの雨で国王側の軍勢は大砲が使えず、ウォリック伯の軍勢の接近を許してしまいました。
さらには今度は国王側の軍勢から寝返る者が出てしまいます。
国王側に勝ち目はなくなりました。
この戦いは「ノーサンプトンの戦い」と呼ばれ、このときもまた国王を守るためにバッキンガム公や多くの高級貴族が戦死してしまいました。
国王はまたしても捕らえられ、精神疾患を発症してしまいます。
この勝利でヨーク公は息を吹き返しました。
彼は意気揚々とロンドンに入場し、ヘンリー6世およびランカスター朝を非合法として自らに王位を要求します。
しかし、さすがにこれはウォリック伯らからも拒否され、王位は認められませんでした。
ヨーク公はそれでもあきらめませんでしたが、妥協案を受け入れてヘンリー6世の王位継承権者となり、護国卿として再任されることになりました。
ヨーク公は再び権力を握ったのです。
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- 2012/10/19(金) 20:57:06|
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