長かった英仏間の「百年戦争」もようやく終局を迎え、英国は残念ながら大陸における支配地のほとんどを失ってしまいました。
間の悪いことに、その終局と軌を一にするように国王ヘンリー6世もまた、精神疾患に悩まされてしまいます。
ヘンリー6世は王子の誕生さえも理解できず、苦慮した王妃マーガレットが自らを摂政に任じてほしいと訴えましたが、それもかなわず、貴族院の指名でヨーク公リチャードが護国卿(摂政)に任じられることになります。
護国卿に任命されたヨーク公リチャードは、「百年戦争」では主戦派として行動しており、今回の「百年戦争」の敗退を和平派による軍備と資金面での妨害によるものと考えておりました。
そのため、和平派の中心人物であったサマセット公エドモンド・ボーフォートを激しく憎んでおり、権力を握ったことで彼を投獄してしまいます。
サマセット公ボーフォートはランカスター家の傍流であり、これによってヨーク家とランカスター家の間には容易に修復できない溝ができてしまいました。
護国卿として政務をつかさどっていたヨーク公リチャードでしたが、思わぬことから事態が変わります。
国王ヘンリー6世が精神疾患から回復したのです。
ヘンリー6世は1455年に政務に復帰すると、護国卿であったヨーク公を解任し、投獄されていたサマセット公を宮廷に復帰させました。
ヨーク公自身は王位を手にしようとは思っていなかったと言われますが、王のお気に入りであるサマセット公をこのままにしておいてはヨーク家の崩壊であると感じた彼は、いよいよ王に対して反発を強めます。
事実王妃マーガレットをはじめとする反ヨーク公の党派が構築されており、このままではヨーク公自身の命も危うくなってきていたのでした。
こうしてヨーク公はついに武力を持って国王と対峙するしかないと決意したのです。
1455年5月、大評議会開催のためにレスターに向かっていたヘンリー6世、マーガレット王妃、サマセット公以下の一行は、軍勢を率いて公正な審理を求め南下してきたヨーク公の軍勢と対峙します。
このときの兵力はヨーク公側が同盟貴族のウォリック伯の軍勢と合わせて約三千。
それに対する国王側の兵力は約二千でした。
両軍はセント・オールバーンズという町でにらみ合いますが、双方ともまだ話し合いの余地はあると考え、交渉が行なわれます。
しかし交渉は不首尾に終わり、両軍は戦闘状態に。
戦いは序盤は国王側が有利で、狭い路地を進むヨーク公側は手痛い損害を受けました。
しかし、ウォリック伯が手勢を率いて迂回行動をとったことで形勢は逆転。
国王側の軍勢は手薄な箇所を破られて狼狽し、さらにウォリック伯の命で国王の周辺にいる貴族たちに矢の集中射を浴びせたことから国王側の高級貴族に損害が続出。
これによって国王側の総崩れとなりました。
この(第一次)「セント・オールバーンズの戦い」はヨーク公側の勝利に終わり、国王側は国王ヘンリー6世が捕縛された他、サマセット公も戦死すると言う痛手を負いました。
軍勢の損害はそれほどでもなかったのですが、国王が捕らえられサマセット公が戦死すると言うのは政治的には大打撃であり、ヨーク公側にとっては予想以上の大勝利となったのです。
この勝利によってヨーク公は影響力を取り戻しました。
彼は戦傷と精神疾患の再発で執務不能となった国王に代わり再び護国卿に任命され、国王側のノーサンバーランド伯を処刑するなど権力の強化に励みます。
しかし、これもまた長続きしませんでした。
翌1456年、ヘンリー6世はまたまた精神疾患から回復。
政務に復帰すると、ヨーク公を解任します。
これによってヨーク公は宮廷から離れ任地で足場を固めに入り、同盟者のウォリック伯もカレーで力を蓄えることにいたします。
ヘンリー6世は戦死したサマセット公の息子ヘンリー・ボーフォートをサマセット公に取り立て、以前のサマセット公同様に寵臣として重用し、マーガレット王妃もまたランカスター家の力を背景にしたコベントリーに宮廷を移させるなどいたします。
わずか1年で(第一次)「セント・オールバーンズの戦い」で得たものを失ったヨーク公はたまったものではありません。
つぎの戦いが目の前に迫ることになりました。
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- 2012/10/16(火) 21:08:26|
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