のちの裁判による証言によれば1412年1月6日に生まれたとされるジャンヌ・ダルクは、1425年に初めて「大天使の声」を聞いたといわれ、その「声」によって包囲下のオルレアンを解放せよと告げられたといいます。
ジャンヌはその声に従い、王太子シャルルの下へ赴き王太子本人と直接に会話をします。
このことが直接の要因となったのかどうかはわかりませんが、それまで百年戦争にあまり乗り気ではなかったといわれる王太子シャルルはオルレアン解放を決意。
フランス軍はオルレアンへと向かいました。
1429年の4月末から5月初旬にかけ、オルレアンの包囲陣に対するフランス軍の攻勢が行なわれたことで、オルレアンの包囲は解かれ、英軍は撤退することになりました。
この戦いでジャンヌ・ダルクは兵士の士気をとても高める役割を果たし、今日においても彼女を救世主や聖女としてあがめる要因となったのです。
王太子シャルルはジャンヌの勧めに応じてランスで戴冠式を挙行。
晴れてフランス王シャルル7世として即位いたします。
しかし、シャルル7世の命でパリ解放に向かったジャンヌ・ダルクはこれに失敗。
1430年にはコンピエーヌの戦いで負傷し、捕虜となってしまい、翌1431年に異端者として火刑に処せられました。
ジャンヌ・ダルクを失ったシャルル七世でしたが、その後もフランスの力の強化に努め、1431年にブルゴーニュ公と休戦、その4年後には英国と同盟を結んでいたブルゴーニュ公はこれを破棄し、新たにフランス-ブルゴーニュ同盟が結ばれました。
これに対し英国王でありフランス王位継承権者であるヘンリー6世は、支配下であったパリでフランス国王の戴冠式を挙行しますが、当然のようにフランス国民がこれを受け入れるはずも無く、事態はじょじょに英国にとって不利になっていきました。
ブルゴーニュとの同盟に成功したシャルル7世は、矢継ぎ早に国内の強化や大陸における英国支配地に対する圧力を強めます。
1445年には常設軍が設置され、訓練・軍役と引き換えに税が免除される徴兵制も施行されました。
英国はここにいたっても足並みがそろわず、宮廷内の権力争いに明け暮れました。
1435年にベッドフォード公が死去し、グロスター公とサフォーク伯やボーフォート枢機卿らが反目。
1445年にサフォーク伯はフランスとの和平を画策してシャルル7世の親類とヘンリー6世の結婚を取り決めますが、この結婚に伴う和平には領地割譲が含まれていたことから英国内では大変に不評な結婚でした。
1447年、サフォーク候へと昇格したサフォーク伯は、和平に反対するグロスター公を反逆罪で逮捕。
五日後にグロスター公は獄中で死亡します。
グロスター公を死に追い込んだことでサフォーク候の立場は悪化の一途をたどりました。
そのためサフォーク候は自らの立場を回復するために、これまでとは一転して百年戦争での勝利を求めます。
そして大陸において攻勢に打って出ますが、すでにフランスは常備軍の設置などで軍備を強化しており、英軍が歯の立つ相手ではなくなっておりました。
英軍は各地でフランス軍に追い立てられ、じょじょに大陸での支配地を失っていきます。
そして1450年、「フォルミニーの戦い」でフランス軍に大敗し、ついにノルマンディー地方を完全に失いました。
このことで公爵にまで登りつめていたサフォーク候はついに失脚。
国外追放を命じられ、その途中で殺害されてしまいます。
このような状態になっても英国内の権力争いは収まりませんでした。
むしろ各地で新興貴族と旧貴族との間の確執が強まり、貴族同士の私闘が繰り広げられるような有り様でした。
英軍にはもはや大陸の支配地を保持する力は無く、アキテーヌ地方の都市ボルドーが1451年に陥落。
翌年に英軍が再度占領するも、1453年の「カスティヨンの戦い」でフランス軍に大敗し、再びボルドーは失われました。
歴史上、このボルドー再陥落で、長きに渡った「英仏百年戦争」は終結したとみなされます。
そして、いよいよ英国内の権力争いが内乱にまで発展することになるのでした。
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- 2012/10/11(木) 21:04:11|
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