英国王エドワード3世の死去により、わずか9歳のリチャード2世が王位につきました。
イングランドではそのためランカスター公ジョン・オブ・ゴーントを筆頭にした評議会を設置し、年少のリチャード2世を補佐する態勢を整えます。
ところが、百年戦争に基づく戦費調達等の問題から「ワット・タイラーの乱」をはじめとした民衆反乱が続発し、リチャード2世を悩ませました。
民衆反乱をどうにか抑えたリチャード2世は、評議会を廃して自らが政治を行なおうとしましたが、今度はそのことが寵臣政治とされ、政策そのものもフランス寄りと批判されることになりました。
さらにリチャード2世には子が無く、王位継承の問題も発生します。
親類のマーチ伯モーティマーを王位継承権者に任命したものの、彼は王より先に死去してしまい、かといってマーチ伯の息子であるエドマンド・モーティマーを次ぎの王位継承権者に任命することもしなかったようでした。
こういった相次いだ民衆反乱や寵臣政治、百年戦争等の諸問題はリチャード2世からじょじょに貴族たちの信頼を奪い去ってしまいます。
これに対しリチャード2世は、議会派諸侯のグロスター公やアランデル伯を対仏政策に反対したとして処刑するなどの強攻策を取ってきたことで諸侯との対立は決定的となりました。
そんな折、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが死去。
リチャード2世はこの機会にランカスター家の勢力を削ってしまおうとしてランカスター公の息子ヘンリーからランカスター家の領地と爵位を没収してしまいます。
(1)でも触れましたが、これは当然ヘンリーにとって受け入れられるはずも無く、ヘンリーはリチャード2世に領地と爵位の返還を要求。
リチャード2世がそれを突っぱねたことから、ヘンリーはリチャード2世に対して反旗を翻しました。
議会派諸侯の支持を失っていたリチャード2世に対し、ヘンリーは多くの貴族の支持を集めることに成功。
ヘンリーは国王の軍勢を打ち破ると、リチャード2世を退位に追い込みます。
これによって百年戦争前半の英国側の主役であったアンジュー・プランタジネット朝が滅亡。
ヘンリーが新たにヘンリー4世として即位したことで、ランカスター朝が始まりました。
1399年のことでした。
この後、ヘンリー4世は前王朝の血筋であるエドマンド・モーティマーを担いだいくつかの反乱も制圧し、英国を安定させることに尽力します。
そして1413年、息子のヘンリー5世に王位を引き継いで死去。
ヘンリー5世は父が国内を安定させてくれたことから対外に目を向け、休止していた百年戦争を再開させました。
1415年、ヘンリー5世は自ら兵を率いて大陸に乗り込み、「アジャンクールの戦い」でフランス軍を撃破。
その勢いを持って1420年にフランスと「トロワ条約」を結び、ヘンリー5世の子孫によるフランスの王位継承権を認めさせました。
しかし、ヘンリー5世の勢いもここまででした。
1422年、ヘンリー5世は急死。
わずか生後9ヶ月のヘンリー6世が即位します。
同じころフランスでもシャルル5世の後を継いだシャルル6世がこれまた死去し、「トロワ条約」に従えばフランス王位もヘンリー6世が相続するはずでした。
しかし、シャルル6世には王太子シャルルという後継ぎがおり、フランスは王太子シャルルを国王にしようとしてヘンリー6世のフランス王就任に抵抗します。
これに対し英国側は足並みがそろいませんでした。
ヘンリー6世にはベッドフォード公とグロスター公という二人の叔父がいて、年長のベッドフォード公が摂政として政治を行なっておりましたが、その補佐をするグロスター公とサフォーク伯等の有力貴族とが反目しあうようになっていたのです。
それでも英国はフランスのブルゴーニュ公と同盟を結ぶなどして大陸における影響力の拡大を図っていきました。
そしてフランス側の拠点となっている町のひとつオルレアンを制圧するために包囲します。
苦境に陥ったオルレアンの町でしたが、そのとき一人の少女が立ち上がりました。
ジャンヌ・ダルクでした。
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- 2012/10/06(土) 20:59:13|
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