ヘンリー・ボリングブロクによって命脈を絶たれてしまったアンジュー・プランタジネット朝でしたが、そもそもこのアンジュー・プランタジネット朝こそが英仏「百年戦争」の発端でした。
アンジュー・プランタジネット朝は、もともとはフランスの北西部に勢力圏を持っていたアンジュー伯が大本でした。
アンジュー伯は同じフランス内のノルマンディー公国やブルターニュ公国、そして場合によってはフランス王国そのものとも勢力争いを繰り広げておりました。
1120年、嫡男を失ったイングランド王ヘンリー1世が自らの姉をアンジュー伯に嫁がせたことで、アンジュー家はイングランドの王位継承権を手に入れます。
そして紆余曲折ののちに、アンジュー伯となったヘンリー1世の姉の息子アンリがヘンリー2世としてイングランド王として即位したことからアンジュー・プランタジネット朝が始まりました。
ちなみにプランタジネットとはエニシダのことで、アンジュー家の家紋として使われていたことからプランタジネット朝と呼ばれるようになったといいます。
イングランドではヘンリー2世、そして大陸ではアンジュー伯アンリとなったことで、アンジュー伯の勢力圏は飛躍的に増大いたしました。
こうして一時は「アンジュー帝国」とも呼ばれるほどの一大勢力となったアンジュー家でしたが、大陸ではフランス王やその他による有形無形の圧力を受け、じょじょに大陸に置ける領土を侵食されてしまいます。
1259年、アンジュー・プランタジネット朝のイングランド王ヘンリー3世はフランス王に臣下の礼をとることでギュイエンヌ地方の領土を安堵してもらうことに成功しますが、その後もフランス王からの干渉はやむことがありませんでした。
1328年、300年以上にわたってフランス王家を継いできたカペー朝がシャルル4世の死によって断絶。
王位はシャルル4世の従兄弟であるヴァロア伯フィリップが継ぐことになりました。
これに対してイングランド王となっていたエドワード3世は自らの血筋(母がシャルル4世の妹)を持ってフランス王の王位継承権を主張。
しかし、この訴えはフランス諸侯が受け入れることなく終わり、ヴァロア伯フィリップがフランス王フィリップ6世として即位。
エドワード3世はギュイエンヌ地方の領主(ギュイエンヌ公)としてフィリップ6世に臣下の礼をとらざるを得ませんでした。
その後、フランドル地方の問題やスコットランドにおける問題などで、フィリップ6世とエドワード3世はことあるごとに対立、両者は険悪な状況になっていきます。
1337年、ローマ教皇の仲介もむなしく、エドワード3世とフィリップ6世の対立は収まらず、ついにフィリップ6世はギュイエンヌ地方の没収を宣言。
これに対しエドワード3世はフィリップ6世を偽のフランス王であるとしてフィリップ6世に対する臣下の礼の撤回と自らのフランス王就任を宣言。
これによって両者の間に戦端が開かれました。
世に言う「百年戦争」の始まりでした。
「百年戦争」は、序盤は英国側の有利に戦いが展開しました。
1346年の「クレシーの戦い」でフランス軍は大敗を喫し、1350年には発端となったフランス王フィリップ6世が死去。
後を継いだジャン2世も1356年の「ポワティエの戦い」で英国軍に敗北し、ジャン2世自身が英軍の捕虜となってしまう有り様でした。
ジャン2世はその後の和平交渉でフランス側が身代金を払うことが成立し解放されました。
しかし、彼の代わりとなった人質が逃亡するという事態が起こったため、ジャン2世はわざわざ再度英国の捕虜となりに出向き、そしてそのままロンドンで死去いたします。
ジャン2世の死でフランス王は息子シャルルがシャルル5世として即位。
シャルル5世は戦費負担のために今までの直轄領からの収入だけに頼るのではなく、税金を徴収することでまかなおうと税制改革を行ないます。
このことからシャルル5世は「税金の父」とも呼ばれるそうです。
シャルル5世は外交にも力を入れ、政略結婚でフランドルを押さえ、ブルターニュの動きを封じることにも成功します。
1376年、イングランド軍の中核として力を振るったエドワード黒太子が、翌1377年にはエドワード3世がそれぞれ死去すると、英国とフランスは和平へ向けて動き出しました。
さらに1380年にはシャルル5世も死去し、戦争そのものは休戦状態となりましたが、和平条約まではなかなかこぎつけることができませんでした。
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- 2012/09/27(木) 21:03:38|
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