19世紀後半、南米の強国の一つチリは海軍力増強のために英国に一隻の巡洋艦を発注いたしました。
巡洋艦の艦名は「エスメラルダ」
彼女は船体内のボイラー室や主機室の上部甲板に装甲を張って防護甲板とした防護巡洋艦と呼ばれるものの最初の一隻で、装甲巡洋艦と呼ばれるものが舷側に装甲を張っているのとは違い、舷側には装甲を張らない軽防御の巡洋艦でした。
「エスメラルダ」は特に問題なく建造をされましたが、途中で南米の政治状況の変化もあり、チリではまだ完成していないうちから「エスメラルダ」の売却が検討されます。
ここでチリが売却先として打診したのが、まだ明治に変わって20年も経たない日本でした。
当時日本海軍はこの「エスメラルダ」の購入を考えたものの、同じ防護巡洋艦の「吉野型」を英国に発注したこともあって購入には至りませんでした。
このため「エスメラルダ」はそのままチリ海軍の防護巡洋艦として完成し、チリ海軍の一員となりましたが、明治27年に日本と清国が戦争を開始すると、日本は海軍力の増強を図るため、今度は日本側からチリに購入の打診を行います。
チリはこの申し出を受け入れて「エスメラルダ」を日本に売却。
「エスメラルダ」は日本海軍の防護巡洋艦「和泉」として日本へと回航されました。
この「和泉」という名前は、「エスメラルダ」の「エスメ」と音が似ていることから付けられたともいわれます。

常備排水量は約3000トン。
石炭を焚いて約18ノットの速力を出すことができました。
武装は25センチ砲を二門搭載しておりました。
日本の防護巡洋艦となった「和泉」でしたが、日本に到着したのは日清戦争の終戦直前であり、日清戦争で活躍することはできませんでした。
日清戦争後は三等巡洋艦に類別され、主砲も15センチ砲に交換されるなどの改修を受けます。
そして日露戦争に参加。
日露戦争ではさまざまな任務に使われて活躍しましたが、一番はなんと言っても日本海海戦のときでしょう。
「和泉」はこのとき索敵任務についておりましたが、ロシアのバルチック艦隊を最初に発見した「信濃丸」に続いてバルチック艦隊と接触。
「信濃丸」から触接(敵にくっついて状況を知らせること)を引き継いでバルチック艦隊の動向を逐次司令部に知らせ続けたのです。
これにより日本海軍は日本海海戦で勝利を得ることができました。
まさに「和泉」は陰の功労艦だったのです。
日露戦争後は明治45年に除籍され廃艦。
スクラップとなりました。
これまたある意味数奇な運命の艦だったのではないでしょうか。
チリ海軍の巡洋艦でありながら建造途中にすでに日本とかかわり、完成後はやはり日本に売却となって日本海海戦の殊勲艦となる。
何事もなくチリ海軍の軍艦として終わっていれば、おそらく平穏な一生だったのだと思います。
面白いものですね。
それではまた。
- 2012/05/15(火) 20:58:49|
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