第二次世界大戦が始まると、航空機のエンジンとしてジェットエンジンが注目されるようになります。
しかし、初期のジェットエンジンは燃費が悪く航続距離が短いことや、搭載した航空機の離着陸距離が長いことが弱点であり、航空母艦に搭載する戦闘機としては誠に都合が悪いものでした。
ですが、いずれ敵の戦闘機にジェット機が登場するであろうことは考えられ、対抗上艦載機のジェット化も考えないわけにはいきません。
そこでアメリカ海軍は、発着艦時や巡航時には今までどおりプロペラで飛び、いざ戦闘になったときにはジェットエンジンに切り替えると言う二種類のエンジンを搭載することを考えます。
そうすれば双方のいいとこ取りができると考えたのでしょう。
米海軍はこの考えに基づいて各社に試案の提出を求めましたが、このとき一番評価が高かったのは今まで軍用機に関しては製造実績のなかった「ライアン」社の案でした。
ライアン社の案は非常に手堅いもので、今までのプロペラ機と違うのは胴体後部にジェットエンジンの噴射口があることと、前輪式降着装置になったことだけとまで言われるほどでした。
米海軍はこの試案に基づきライアン社に試作機の作成を命じます。
試作機はジェットエンジンを搭載しない状態でまず作り上げられ、飛行性能に問題がないことが確かめられてからジェットエンジンが搭載されました。
この試作機は米海軍初のジェットエンジン搭載機という新機材でありながら、ライアン社の手堅い設計のためにほとんど問題らしい問題がなく、1944年末にはもう実用機の生産を開始してもなんら差し支えがないほどでした。
この時期、太平洋では米軍は日本軍のカミカゼ攻撃に対処しなくてはなりませんでしたが、正規空母はともかく護衛空母に搭載されている艦上戦闘機では対処が難しくなってきておりました。
そのためこの機体は護衛空母に搭載する戦闘機として量産が決定され、ライアンFR-1ファイアボールとして1945年1月から量産が始まります。

当初はこの基本型FR-1を100機、改良型のFR-2を600機生産する予定でしたが、ほどなく太平洋戦争が終結し、さらにはジェット機の急速な発達等もありわずか66機で生産は終了します。
そして一部護衛空母には実際に配備されたものの、1947年には早くも退役となってしまいました。
FR-1はまさにレシプロ(プロペラ)機からジェット機へと移り変わる過渡期の機体だったといえるでしょう。
悪くはない機体だったのですが、戦争に間に合わなかったことがやはり不運だったと思われます。
あと半年ぐらい早ければ、一部機体は実戦に参加できたかもしれませんね。
それではまた。
- 2012/05/10(木) 21:44:57|
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