第二次世界大戦中期の1943年、米国グラマン社は次期艦上戦闘機についてどうするかを模索しておりました。
このとき、グラマン社の主任テストパイロットであるボブ・ホールは英国でドイツ軍の戦闘機であるフォッケウルフFw190を見て、大出力のエンジンを小型軽量の機体に載せて高加速力や旋回時にも速度を落とさないで済む持続力を得ることが重要だと感じました。
ホールのこの意見はグラマン社で採用され、次期艦上戦闘機は小型軽量の機体に大出力エンジンを搭載した戦闘機を開発しようということになります。
これは当時生産が開始されていた主力戦闘機F6Fが、その大きさから小型の護衛空母で運用するには不適当であったことから、護衛空母でも運用可能な戦闘機が求められていたこととも一致いたしました。
グラマン社の計画は米海軍当局にも好意的に受け取られ、早速1943年11月にXF8F-1のナンバーで開発が命じられました。
エンジンにはP&W R2800という2100馬力のエンジンが選ばれ、機体は小型軽量ということから全長8.38メートル、最大幅10.82メートルに抑えられました。
これはF6Fのエンジンが2000馬力だったことに加え、全長が10.22メートル、最大幅で13.06メートルだったことに比べると、パワーが増大し機体は一回り小型化していることがよくわかります。
試作機は1944年8月に初飛行し、試験では予想通りの高性能が発揮されました。
このとき、鹵獲した日本の零戦52型とも模擬空戦を行い、零戦を圧倒したばかりか、当時の米陸軍航空隊の主力戦闘機P-47やP-51などをも圧倒し、陸海軍で最優秀の戦闘機とまで言われるほどでした。
試作機の初飛行から6ヵ月後には量産機が工場から出荷され、正式にF8Fというナンバーが与えられました。
愛称は「ベアキャット」とされ、グラマン社の伝統的なキャットシリーズの一員となったのです。
1945年半ばには最初のF8F運用部隊が日本との戦争に投入されるべく日本近海に進出いたしました。
しかし、残念ながら日本の降伏により、F8Fは第二次世界大戦での実戦は行われませんでした。
プロペラ戦闘機としてはとても優秀な戦闘力を持ったF8Fでしたが、時代はすぐにジェットの時代になってしまいました。
次の戦争である朝鮮戦争はすでにジェット機の戦争であり、プロペラ機であるF8Fの出番はなくなってしまっておりました。
それでもプロペラ機の一部は対地攻撃機として使用されたりしましたが、残念なことにF8Fは空戦性能を高めるための小型軽量化があだとなってしまい、地上攻撃機として使用するには不向きな機体となってしまっておりました。
結局同じプロペラ艦上戦闘機であるF4U「コルセア」は地上攻撃機として生き延びたものの、F8Fは生き延びることができませんでした。
米軍機としてはわずか1266機の生産に終わったF8Fは、1950年代いっぱいで姿を消すことになるのです。

艦上戦闘機として同時代の戦闘機の中で最優秀といわれたほどの戦闘機でしたが、それはあくまでも“プロペラ戦闘機”としてのことでした。
時代がジェット機に移り変わっていく中で、過渡期に生まれてしまったことがF8Fの不幸だったといえるでしょう。
ただ、民間に払い下げられた機体の中には、その高性能ぶりからエアレース用に使われたり、運動性能のよさからアクロバット用に使われたりした機体もあり、そのうちの一部は現在でも元気に空を飛んでいるといいます。
平和な空をいまも飛び続けている機体があることが、F8Fにとって慰めになっているのかもしれませんね。
それではまた。
- 2012/04/05(木) 21:00:00|
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