第二次世界大戦が始まった1939年、英国海軍は航空母艦に搭載する新型艦上戦闘機の開発をホーカー社とブラックバーン社に命じました。
これに基づき二社が試案を提出。
この試案の優良さからブラックバーン社が新型戦闘機の主契約メーカーとなりました。
しかし、ブラックバーン社ではこの新型機の開発が遅々として進まず、試作機が初飛行したのはなんと3年後の1942年になってからでした。
しかもこれだけ時間をかけたにもかかわらず、試作機の飛行性能は凡庸で運動性も良くないものでした。
第二次大戦序盤は英国海軍にはまともな艦上戦闘機が無かったのですが、この時期には空軍の「スピットファイア」をやむを得ず艦載型にした「シー・ファイア」を空母に載せて運用しておりましたが、これが思った以上に良好であったり、またアメリカからF4F艦上戦闘機を輸入するなど艦上戦闘機問題はこの時点でほぼ解決していたことから、ブラックバーン社の新型戦闘機を必要としなくなっておりました。
そのためこの新型戦闘機用にと用意されていた液冷のセイバーエンジンは空軍の新型戦闘機「タイフーン」用に回されることが決まってしまい、ブラックバーン社の新型戦闘機は開発が中止される可能性がでてきてしまいます。
ところが、この新型戦闘機は大きな兵装搭載能力を持っていたため、魚雷を搭載することの可能な雷撃機としてなら使い道があると判断され、設計を多少変更して戦闘機でありながら魚雷を搭載する世にも珍しい「戦闘雷撃機」として完成させることが決まります。
この戦闘雷撃機型の試作機は1943年に初飛行しましたが、これはセイバーエンジンを搭載しておりました。
しかし、前述のとおりセイバーエンジンは「タイフーン」用に決まってしまったため、新たに空冷のセントーラスエンジンを搭載した試作機を作ることになります。
このセントーラスエンジン搭載の試作機は1943年の年末に完成しましたが、ここでもまた操縦性能の問題とか着陸脚の問題等があり、また改良が必要でした。
この改良にもまた時間がかかってしまい、結局すべての問題点を改良したマーク4が完成し初飛行したのは1945年5月のことでした。
この時点で大西洋での敵だったドイツは降伏してしまっており、さらに量産機が部隊配備されたのが1945年9月と太平洋の敵である日本も降伏してしまうと言うなんとも不幸な状況となってしまいます。
「ファイアブランド」と名付けられたこの戦闘雷撃機は、結局第二次大戦には間に合わず、200機ほどが製造されましたが1953年ごろにはもう第一線からははずされてしまいました。

やはりなんと言っても開発に時間がかかりすぎたことが問題ですが、それにしても不幸としか言いようがないような気もします。
戦闘機だが魚雷も搭載できると言うのは当時の英国海軍にすれば確かに魅力だったのかもしれませんが、戦闘機としての能力が足りないとわかった時点ですっぱりと開発中止にしても良かったのかもしれませんね。
とはいえ、英国海軍はこの「ファイアブランド」の後継機として「ワイヴァーン」と言う戦闘雷撃機を開発していることからも、魚雷を搭載できる戦闘機というものにかなり魅了されていたのかもしれません。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2012/03/06(火) 21:05:00|
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