1914年にはじまった第一次世界大戦は、戦争を有利にするために開発された新型兵器のオンパレードでした。
海では潜水艦が商船を撃沈し、陸では陸上戦艦のような戦車が登場して塹壕を越えてくるようになりました。
そして空でも両軍の航空機が敵味方に分かれて戦い始めていたのです。
最初は上空からの偵察でした。
空から敵情を探れば、陸上部隊の移動などは丸わかりだったからです。
また、戦場で威力を発揮したのは大砲でしたが、その砲弾がどこに落ちるかを観測するにも気球や航空機は上から見ることができるので便利でした。
しかし、敵に有利になるような偵察機や砲撃観測用の気球や観測機を野放しにしておいたのでは、味方の損害ばかりが増えてしまいます。
そこで敵の偵察機や観測気球などを撃ち落とそうという動きが起こります。
航空機に対抗するには航空機が一番です。
こうして敵の偵察機や観測機を撃ち落とすための戦闘機が現れました。
戦闘機と言っても最初は偵察機の偵察員が機銃を持って相手を撃つようなものであり、あまり効率的なものではありませんでした。
できれば機首に機関銃を載せて、敵めがけて撃てればいいのですが、機首には大事なプロペラがあり、下手に機銃を撃つとプロペラを破壊してしまいます。
参戦各国はこの問題の解決に躍起になり、プロペラの根元に弾をはじく防弾板をつけたりプロペラの回転範囲外の主翼の上に機銃を載せたりしましたが、いずれも決定的な解決にはなりませんでした。
しかし、ドイツがプロペラの回転にあわせて機銃の発射を調整するプロペラ同調装置の開発に成功すると、プロペラの回転を通して機銃を撃てるようになりました。
そして、この同調装置つき機銃を装備した戦闘機がフォッカー社の「フォッカーE3」でした。
フォッカーE3は、機体そのものは大戦前にフランスで作られたスポーツ用航空機「モラン・ソルニエH」をコピーしたものといってよく、この時代にしては珍しい複葉ではなく単葉の航空機でした。
翼には胴体からワイヤーが張られており、補強すると同時にこのワイヤーで翼を引っ張ってたわませることで旋回などを行うというものでした。

スポーツ機としてそれなりの能力を持っていたモラン・ソルニエHでしたので、そのコピーであるフォッカーE3もそこそこ性能の良い戦闘機でしたが、やはり何よりものをいったのは同調装置つき機関銃を装備したことでした。
1915年に戦場に現れたフォッカーE3は、たちまちのうちに連合軍の偵察機を次々と撃ち落とし、迎撃にやってきた連合軍側の戦闘機も返り討ちにしていったのです。
この時点での連合軍戦闘機には同調装置がなかったため、狙いの付けづらい主翼の上側に機銃がついていたりとか、機銃を前に撃つためにやむを得ずプロペラを後ろ側につけた飛行性能の劣る戦闘機しかなく、フォッカーE3の敵ではなかったのです。
この傾向は撃墜したフォッカーE3から同調装置の秘密を探り当て、それに基づいて連合軍側も同調装置つき機銃を搭載した戦闘機を1916年に前線に送り出すまでの約一年間ほど続き、この間はフォッカーE3による連合軍機の撃墜が数多く行われたことから「フォッカーの懲罰」とまで呼ばれるほどだったのです。
1916年になると連合軍側の新型機の前にさすがのフォッカーE3も性能不足を露呈するようになってしまいますが、大戦前半におけるドイツ軍の制空権確保にフォッカーE3が果たした役割は大きいものといえるでしょう。
それはなにより機体性能ではなくプロペラ同調装置によるものだったに違いありませんね。
それではまた。
- 2012/02/24(金) 21:05:00|
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