「朝鮮戦争」停戦後の1954年(昭和29年)、日本で航空自衛隊が発足します。
翌1955年(昭和30年)12月、米軍より主力戦闘機としてF-86F型を9機供与されたのが、航空自衛隊在籍のF-86の始まりでした。
さらに翌年の1956年(昭和31年)には171機ものF-86Fが供与され、さらにノースアメリカン社で製造した部品を日本で組み立てるというノックダウン生産で70機のF-86Fが生産されました。
その後は日本の三菱重工においてライセンス生産が行われ、1961年(昭和36年)までに230機の日本製F-86Fが完成し、航空自衛隊におけるF-86Fの総数はなんと480機にも上りました。
ところが、機体は急速に増勢できますが、パイロットはそうそう簡単には訓練できません。
結局パイロット不足のために寝ている機体が何機も現れるという事態となってしまい、これが問題となったことで米軍から供与された機体のうち最初に45機を、のちにさらに15機を返還するというはめに陥ってしまいます。
とはいえ、400機を超えるF-86Fが日本全国に配備されることになり、航空自衛隊の戦力は大きく強化されました。
また、1958年(昭和33年)には、全天候型のF-86Dも米軍から供与が始まり、こちらは122機が配備となりました。
しかし、F-86Dはライセンス生産は行われず、すべて米軍の中古機だったといいます。
残念なことにF-86Dのほうは、F-86Fに比べて故障が多く、特にレーダー等の電子機器は日本の湿気に弱くてうまく稼働しないことが多かったそうで、わずか10年ほどでF-86Dは日本の空から姿を消すことになりました。
しかし、F-86Dによって全天候型戦闘機運用のノウハウを得られたことは、航空自衛隊にとっては大きな意義のあるものでした。
一方400機を超えるほどの大量配備となった日の丸F-86Fは、航空自衛隊の象徴として多くの特撮番組でその姿を見せることになりました。
「ゴジラ」に代表される日本の怪獣映画では、巨大な怪獣を攻撃する自衛隊機として頻繁にF-86F(の模型)が画面に登場しましたのは、多くの方がご覧になったのではないでしょうか。

また、F-86Fは航空自衛隊の戦技研究班である「ブルーインパルス」の初代使用機としても有名で、各地の航空祭などでその優れた飛行技術に見入った方も多いでしょう。
白い機体に青いラインを描いたF-86Fは、大空の青さにとても映えていたのが、記録映像等からもうかがえます

しかし、残念な事故もありました。
1971年(昭和46年)7月30日、岩手県の雫石上空で訓練飛行中のF-86Fは、全日空58便と空中衝突。
旅客機側の乗員乗客162名が全員死亡するという大惨事があったのです。
とてもとても痛ましい事故でした。
1962年(昭和37年)には、航空自衛隊第二世代の戦闘機としてロッキード社のF-104をライセンス生産したF-104Jが配備されて行きますが、F-86Fはその後も数を減らしながらも使い続けられ、支援戦闘機としての任務に就いたりいたします。
そして、最後のF-86Fが航空自衛隊から姿を消したのは1980年(昭和55年)のことでした。
日本のF-86Fは愛称を「セイバー」ではなく「旭光」と名付けられましたが、あまりその名では呼ばれずに「ハチロク」と呼ばれることが多かったようです。
日本の航空自衛隊の黎明期を支えたF-86F。
世界的な名機は日本にとっても名機でした。
それではまた。
- 2011/07/13(水) 21:12:58|
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