1944年の1月に初飛行が行われたアメリカ軍のジェット戦闘機P-80シューティングスターは、優秀ではありましたがその後もトラブルが続き、結局第二次世界大戦には間に合いませんでした。
これは昨日も書きましたが、P-80そのもののトラブルもさることながら、ジェット機という新技術に不慣れな現場支援体制というものも大きな要因の一つでした。
本来であればこの時点で乗員訓練と整備等の支援体制訓練に使えるジェットの練習機があればよかったのですが、第二次世界大戦中ということもあり、米軍はジェット練習機をつくろうとはしませんでした。
そこでロッキード社は、P-80の訓練はP-80を基にした練習機があればいいんじゃないかということで、P-80を複座にした練習機を自主開発することにします。
これは開発開始が1947年ということもあり、P-80C型をベースに行われましたが、胴体を若干延長して後部座席を据え付け、そのぶんの重量軽減として12.7ミリ機銃を6挺から2挺に減らす程度の改造で済まされました。
こうして完成した複座練習機型は1948年3月に初飛行を行いますが、操縦特性はP-80Cとほとんど変わらず、何の問題もありませんでした。
米空軍はすでにこの初飛行前からジェット練習機の必要性を感じていたので、ロッキード社に対しTF-80C(空軍独立でPからFに変更、Tは練習機の意味)として制式採用することと20機の生産を行うよう指示しておりましたが、ロッキード社はこれから各国空軍がジェット化を迎えるにあたりジェット練習機を必要とするはずだとの思いから各国に売り込みをかけました。
すると、驚いたことにこの練習機は多くの国から引き合いがあり、ロッキード社に発注が寄せられます。
その後TF-80Cから練習機専用ナンバーとしてT-33という機種番号に変更となりますが、元が戦闘機だったT-33は操縦が難しすぎず易しすぎもしないという練習機にぴったりの操縦性を持っていたため、最良の練習機として各国が装備いたしました。
最終的には6500機を超えるという練習機としては驚異的な生産機数となり、練習機の大ベストセラーとなったのです。

このT-33練習機は、太平洋戦争後新たに設立された日本の航空自衛隊にもアメリカから戦闘機のF-86Fとともに供与が行われ、最終的には69機のT-33がアメリカから供与されました。
そして日本でも川崎重工がライセンス生産を行い、210機の日本製T-33が航空自衛隊のパイロット養成に使われたのです。
(この210機と、カナダ製CT-133の656機を含めて先ほどの総生産数6500機以上という数字になります)
T-33は各国でも長い間練習機として使われ、使用国は40ヵ国にも及びました。
中には練習機ですが武装を施して軽攻撃機AT-33として使用した国もあります。
タイトルに上げました数字2298名は、日本の航空自衛隊においてT-33練習機でパイロットになった人たちの総数といわれる数字です。
航空自衛隊で使われたT-33は、残念なことに1999年に起こった痛ましい事故によって2000年に残存全機が強制退役となるまで40年以上にわたって使われてきた驚くべき長寿の機種でした。
航空自衛隊はおろか、ライセンス生産に当たった川崎重工も含め、日本の航空界に多大な貢献をしてくれたのがT-33でした。

米軍愛称の「シューティングスター」でも、日本での公式愛称とされた「若鷹」でもなく、その形式名から「サンサン」と呼ばれたT-33。
日本ばかりではなく各国空軍のジェット化に大きな貢献を残した偉大な練習機だったのです。
今日はこんなところで。
それではまた。
- 2011/07/08(金) 21:19:16|
- 趣味
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2