昨日は昨年が朝鮮戦争勃発から60年ということに絡んで、朝鮮戦争の仁川上陸作戦を扱ったウォーゲームを紹介しましたが、今日は実際に朝鮮戦争で活躍した航空機をご紹介。
第二次世界大戦中の1943年、アメリカも次世代機としてのジェット機に目を付け、ロッキード社にジェット戦闘機を開発するように命じました。
これに対しロッキード社では、「双胴の悪魔」として恐れられた「P-38ライトニング」戦闘機を設計したジョンソン技師を中心としたグループに設計を依頼。
ジョンソン技師は一説にはわずか一週間ほどで設計を完成させ、半年後の翌年1944年の1月には試作機を初飛行させるという驚異的なスピードで試作機を完成させました。
しかし、この試作1号機に搭載していたエンジンは英国製のエンジンで、ライセンス生産されることになっていましたが、トラブルがあったり生産が進まなかったりしたことから、2号機以後にはジェネラル・エレクトリック社製のエンジンを搭載することにし、そのエンジン搭載にあわせた改良と、飛行時等における不具合部分を改良することになりました。
こうして完成した新型戦闘機は「P-80シューティングスター」と名付けられ、その高性能ぶりに米軍は大いに期待いたします。
最高速度は時速850キロを超え、当時のレシプロ戦闘機の最高峰「P-51マスタング」の時速700キロと比べても大幅に向上しておりました。
武装も12.6ミリ機関銃を機首に6挺装備し、爆弾も900キログラムぐらいまで搭載することができたのです。
実際、P-80の1機の攻撃に対して爆撃機を護衛しようとするならば、P-51が6機は必要になるという計算もされていたのです。

米軍はすぐにP-80を制式採用し、まず1000機が早くも発注されました。
しかし、ここからP-80は新型機特有のトラブルが多発します。
これはP-80そのものによるものもありましたが、ジェット機という新技術を扱うことになった整備等支援部門の不慣れも大きいものでした。
戦争の進展にともない最終的には3500機以上もの発注が行われたP-80でしたが、トラブル等が続いたため結局は最初の量産機数機が戦時下の空を飛んだのみでした。
ドイツ機とも日本機とも戦うことはなく、P-80は900機ほどで生産を終えることになったのです。
この時点では、P-80は間に合わなかった戦闘機でした。
ところが、第二次世界大戦が終結すると、今度はにわかに東西間の緊張が高まってきます。
米軍は1948年に空軍が独立すると、いままで追撃機(パーシューター)としてPの字が付いていた機種番号も、戦闘機(ファイター)に改めてFの字を付けることになり、P-80はF-80へと変更されました。
さらに大戦中の事故等を教訓にした改良型F-80C型があらためて量産されることになり、800機近くが新たに生産されたのです。
このF-80Cは、1950年に勃発した朝鮮戦争の序盤に米空軍の主力戦闘機として投入されました。
ジェット機であるF-80Cは、北朝鮮側のプロペラ戦闘機に対しては優位に立つことができましたが、やがて北朝鮮側がソ連の援助の下でソ連製のMig-15ジェット戦闘機を投入するようになると、性能の面で劣るF-80Cは戦闘機としては使えなくなっていきました。
米空軍はF-80Cを戦闘機として使うのを諦め、Mig-15に対しては新鋭のF-86戦闘機で対抗することにして、F-80Cは爆弾を装備した戦闘爆撃機として使用することにいたします。
さらに機首にカメラを装備した偵察機型のRF-80も投入し、F-80は対地攻撃や写真偵察にその活躍の場を移していきました。
F-80はこうした任務変更にも適応し、朝鮮戦争ではすべての米軍機(種)の中で最高の出撃数を誇りました。
第二次世界大戦には間に合わなかったF-80でしたが、その基本能力の高さは朝鮮戦争で発揮されたのです。
しかし、F-80の基本性能の高さはこの戦闘機型の活躍だけにとどまりませんでした。
続く
- 2011/07/07(木) 21:15:22|
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