大正初期、日本海軍は駆逐艦を中心として敵艦隊に魚雷攻撃を仕掛ける「水雷戦隊」の旗艦(司令官が座乗して指揮を取る艦)として、基準排水量3500トンほどの軽巡洋艦を建造しました。
欧州海軍では、こういった水雷戦隊の旗艦には巡洋艦ではなく一回り大型に作った「教導駆逐艦」という艦を充てるのが一般的だったので、さらに一回り大きな軽巡を使うことで砲撃力で優位に立とうとしたのかもしれません。
ところが、アメリカ海軍で建造中の新型軽巡洋艦(オマハ級)が予想以上に大型であることから、排水量3500トンでは小さいということになり、基準排水量を5500トンにアップした軽巡洋艦を建造することにします。
この通称5500トン型と呼ばれる軽巡は使い勝手がよかったのか、「球磨」級、「長良」級、「川内」級と三タイプ14隻もが建造されました。
5500トン型はいずれも細長い船体に三本から四本の煙突を持つ似たような艦形をしており、15センチ単装砲7門、魚雷発射管連装4基8門を搭載するという武装を持っておりました。

(5500トン型軽巡の一隻「大井」)
5500トン型軽巡はいずれも大正中期から末期にかけて建造され、昭和に入っても長らく水雷戦隊の旗艦として使われましたが、太平洋戦争が近づいた昭和10年代に入ると、さすがに旧式化が目立ってきます。
一方、日本海軍は「ワシントン海軍軍縮条約」や「ロンドン海軍軍縮条約」により、砲撃戦の主力である戦艦の数を制限されてしまいました。
そこで、主力の戦艦同士の砲撃戦になる前に、航空攻撃や水雷戦隊の魚雷攻撃で敵国の戦艦の数を減らし、戦艦同士の砲撃戦では互角もしくはそれ以上の優位さを持って戦いたいと考えます。
そのため、遠距離から発射することができ航跡も見つかりづらい酸素魚雷(九三式魚雷)を開発しました。
この酸素魚雷は通常一般的な魚雷が七千メートルほどの射程しかないのに比べ、約四万メートルもの長射程があるため、二万五千メートル前後で行われる可能性が高い戦艦同士の砲撃戦にも魚雷を使うことができると考えます。
一般的には魚雷は駆逐艦の主武装であり、その射程の短さもあって敵艦に接近することが必要でしたが、防御力の低い駆逐艦では敵艦に接近するには夜間でないと難しく、それゆえ魚雷は夜間戦闘で用いられるのが普通でした。
しかし、射程が長く航跡も見つかりづらいのであれば、夜陰にまぎれて接近する必要が無いため昼間でも魚雷を使うことができます。
であれば、駆逐艦より大型の巡洋艦あたりに魚雷をたくさん積んで決戦のときに敵艦隊に向けてぶっ放そうという考えが起こるのは当然だったのでしょう。
この巡洋艦に魚雷をたくさん積んでぶっ放したいという考えと、旧式化してきた5500トン型軽巡洋艦をどうするかという問題が一つになるのもまた当然のことでした。
日本海軍は太平洋戦争に向け、5500トン型軽巡の「大井」「北上」「木曽」の三隻を、大量の魚雷発射管を持つ「重雷装艦」に改造することにしたのでした。
続く
- 2011/05/17(火) 21:21:11|
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