1906年の12月。
英国で革新的な性能を持つ戦艦が就役しました。
その名は「ドレッドノート」
そのあまりにも画期的で先進的な性能から、以後「ドレッドノート」をモデルにした戦艦をド級(弩級)戦艦と呼ぶようになったのは有名な話です。
「ドレッドノート」は、今までの戦艦が主砲、副砲、その中間の口径の中間砲というさまざまな大砲を備えて、それぞれがばらばらに射撃していたのに対し、大口径の主砲で統一し、それを一斉に射撃する「斉射」というやり方で砲弾の弾着を確認し、修正して命中弾を得るというやり方を導入するための戦艦でした。
そのため中間砲や副砲を廃し主砲だけを積んだ戦艦となり、30センチ連装砲塔五基を備える艦容は新時代の戦艦にふさわしい力強さがありました。
「ドレッドノート」は完成後すぐに世界的にも有名な戦艦となり、英国人だけではなく世界の人々にもその名が知られた戦艦でした。
そのことがのちに「ドレッドノート」にある事件をもたらすことになります。
1910年の2月、「ドレッドノート」は英国海軍本部よりの緊急電報を受け取ります。
なんと、アフリカのアビシニア(エチオピア)の王族が英国艦隊、特に「ドレッドノート」を見たいということで、歓迎の準備をせよというものでした。
「ドレッドノート」側では大慌てで歓迎の準備を整え、アビシニアの王族一行を迎えます。
2月10日、ウェイマスについたお召し列車から降り立った黒人たち一行は、なんとも奇妙な衣装の一団でしたが、アビシニアの風俗に詳しくない海軍側は特に何の問題とも思わずに一行を迎え入れました。
その当時海軍側にはアビシニア(エチオピア)に詳しい士官もいたのですが、彼は出張中であり、外務省から派遣されてきたという随行員に頼るしかありませんでした。
海軍側は一行をもてなすために軍楽隊にアビシニアの国歌を吹奏させますが、これがなんとアビシニアのではなく、アフリカの別の国ザンジバルの国歌でした。
しかし、一行はこのことをとがめるでもなく上機嫌で「ドレッドノート」を見て回り、時々「ブンガ、ブンガ!」と意味不明の言葉を発しておりました。
この「ブンガ、ブンガ!」とは何を意味するのか海軍側が尋ねたところ、随行員はアビシニア語で「すばらしい、大変すばらしい!」と言っているのですと伝えたため、海軍側もほっと胸をなでおろします。
一行は「ドレッドノート」を満喫し、その日のうちにウェイマスを離れていったので、海軍側は大事な国賓を無事にお迎えしお送りできたことに安堵しておりました。
ところが翌日の新聞に、この日「ドレッドノート」にやってきたのがアビシニアの王族でもなんでもなく、実はホーレス・デ・ヴェレ・コールという悪名高い担ぎ屋と、のちに作家として名を売ったヴァージニア・ウルフら大学生たちのグループだったという記事が載ったのです。
コールが随行員役を演じ、大学生たちがアビシニアの王族一団を演じていたというもので、その写真も新聞社に送りつけられておりました。
もちろんお召し列車も金を払って用意させた偽物であり、彼らが話していた話し言葉も「ブンガ、ブンガ!」もアビシニア語などではなくまったくのでたらめの言葉でした。
しかも海軍側にエチオピアに詳しい士官がいるとまずいので、実行は彼の出張中に行うという念の入ったものだったのです。
彼らは英国海軍の象徴である「ドレッドノート」をこき下ろすことで平和主義・自由主義を訴えようとしたのだといいますが、偽のアビシニア王族に誰も気がつかないばかりか、ご丁寧に歓待してしまった海軍の面子は丸つぶれになりました。
結局主犯格のコールが鞭打ち刑になったといいますが、この事件は「偽エチオピア皇帝事件」として語られ、「ドレッドノート」に付きまとうことになってしまいます。
1915年の第一次世界大戦中、「ドレッドノート」はドイツの潜水艦「U-29」を体当たりで撃沈するという戦果を上げますが、その際の「ドレッドノート」に送られた祝電は「ブンガ、ブンガ!」というものであったと伝えられます。
なんともとんでもない話があったものですね。
それではまた。
- 2011/01/26(水) 21:38:34|
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