1937年、チェコスロバキア軍はスコダ社とCKD社に新型戦車の開発を命じます。
とはいえ、スコダ社はLTvz35を開発したばかりであり、どうしてもその改良型的な戦車となることは否めず、一方のCKD社は、輸出に成功したTNH戦車をベースにした新型戦車を用意してくるのは明白で、もともとTNH戦車の優秀さに目をつけていた軍が、形だけ競争させたという話もあるようです。
こうして1938年にCKD社のTNH戦車を改良した新型戦車が、チェコスロバキア軍によってLTvz38戦車として採用となりました。
LTvz38戦車は、TNH戦車のよさをそのまま引き継いだ当時としては優秀な戦車でした。
主砲には37ミリ砲を搭載しておりますが、これはLTvz35の主砲の口径長を伸ばしたものであり、より貫通力が増しておりました。
主砲のとなりと車体前方には副武装として7.92ミリ機関銃が搭載されておりますが、これは日本でもチェッコ機関銃として有名で、故障知らずの優秀な機関銃として英国でもライセンス生産されたほどの機関銃でした。
装甲厚は車体前面と砲塔前面が25ミリ、側面が15ミリとこの時期の戦車としては平均的な厚さからやや薄いといったところでしょうか。
そして足回りはまさにTNH戦車からそのまま持ってきたともいえる一組の板バネに二つの転輪を取り付けた走行装置を片側二組というもので、この走行装置のおかげで路上では時速約41キロという高速を発揮することが可能でした。
こうして採用となったLTvz38でしたが、CKD社による生産ラインの整備が追いつかず、生産は遅々として進みませんでした。
そうしているうちに、なんとミュンヘン会談でドイツに譲歩した英仏によって、チェコスロバキアのうちチェコ地方がドイツに吸収されてしまうという事態が起こります。
(スロバキア地方はドイツの保護国化)
チェコスロバキア軍はせっかく採用した優秀な戦車も試作車を受け取ることだけしかできませんでした。
チェコスロバキア軍を解体し、その装備を自軍に取り入れたドイツ軍は、このLTvz38にも目をつけました。
優秀な戦車はドイツ軍にとっても有用です。
こうしてLTvz38は、ドイツ軍に採用されることになりました。
CKD社はBMM(ボヘミア・モラヴィア機械製造)社へと改変され、引き続きLTvz38を製造するよう命じられます。
皮肉にも整備を進めてきた製造ラインはここへ来て本格稼動し始め、LTvz38の製造は軌道に乗り始めておりました。
LTvz38は、ドイツ軍によって38(t)型戦車と呼ばれるようになり、ドイツ軍の装甲戦力の一翼を担うようになって行きました。
(t)はドイツ語のチェコ製を意味する頭文字から来ており、重量を示すトン意味ではありません。
かく言う私も昔は38(t)戦車を38トン戦車と読んでしまっており、事実を知ったときには顔が赤くなったものでした。
38(t)戦車の重量は、約9.5トンです。
38(t)戦車は、三号戦車の開発がなかなか軌道に乗らず、一号戦車二号戦車が主力だった1939年当時のドイツ軍にあっては、まさに攻撃力の中核をなす戦車といっても過言ではありませんでした。
機関銃しかない一号戦車や20ミリ砲の二号戦車とは違い、37ミリ砲を搭載した38(t)戦車は三号戦車に匹敵する戦車だったのです。
そして数のそろわぬ三号戦車に代わり、1940年の西方電撃戦では主役を務めて、ドイツ軍の快進撃を支えました。

装甲厚を厚くするなどの改良を加えられながら、1941年の独ソ戦開始まで使われた38(t)戦車は、ここでT-34という強敵の出現により戦車としての寿命を迎えます。
しかし、その信頼性が高く整備製のよい足回りは自走砲の車台として最適であり、以後、38(t)戦車の車台を使った自走砲が各種作られることになります。
そしてその基本設計を流用した38(t)戦車の改良型である新型偵察戦車は不採用となったものの、その新型偵察戦車から駆逐戦車38(t)ヘッツァーへと発展し、最後の最後までドイツ軍にとって必要不可欠な車両となったのでした。
(見た目が似ていることからヘッツァーの車台が38(t)戦車のものと思われがちですが、実際は共通部品は多いものの転輪サイズなどが違う別物であり、新型偵察戦車の足回りを流用しています)
チェコスロバキアという分離吸収された国で生まれた戦車でしたが、その優秀さはドイツという国を支えるほどのものだったのですね。
それではまた。
- 2011/01/22(土) 21:19:57|
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