1898年、日本とロシアがじょじょに険悪な状況に向かう中、ロシアは一隻の防護巡洋艦をアメリカに発注いたします。
注文を受けたのはアメリカペンシルヴェニア州フィラデルフィアにあったクランプ&サンズ社でした。
同社はこの直前に、日本向けの防護巡洋艦「笠置」を建造したばかりであり、期せずして日露双方の巡洋艦を連続して建造したことになります。
翌1899年に進水したこの巡洋艦は、「ワリヤーグ(ヴァリャーグ)」と名づけられ、1901年の1月に竣工します。
全長130メートル、常備排水量で6500トンの「ワリヤーグ」は防護巡洋艦としては大型で、15センチ砲を単装12門も持つ有力な巡洋艦でした。
1904年に日露戦争が始まりますが、「ワリヤーグ」はこの時点で朝鮮半島に配備されておりました。
2月9日、「ワリヤーグ」は砲艦「コレーツ」とともに仁川から脱出しようとしましたが、待ち構えていた日本軍巡洋艦隊との間で砲撃戦となり、損傷した「ワリヤーグ」はやむなく「コレーツ」とともに仁川港に引き返す羽目になります。
このままでは日本軍に捕獲されてしまうと考えた「ワリヤーグ」艦長ルードネフ大佐は、部下たちを退艦させたのち僚艦「コレーツ」ともども「ワリヤーグ」を自沈させました。
こうして沈んでしまった「ワリヤーグ」は、日露戦争中はそのままとなりましたが、日露戦争が終わると日本軍の手で引き上げられることになります。
引き上げられた「ワリヤーグ」は日本へと運ばれてそこで修理を受けました。
そして二等巡洋艦「宗谷」として再就役することになったのです。

日本軍艦となった「宗谷」は、同型艦がなかったことから艦隊として運用することが難しく、結局練習艦として使われることが多くなりました。
1909年には、同じく日本軍巡洋艦「阿蘇」となった元ロシア軍巡洋艦「バヤーン」と練習艦隊を組んでアメリカまで練習航海を行います。
「宗谷」は日本海軍にとっては練習艦として活躍することになったのでした。
1914年になると、欧州で第一次世界大戦が始まります。
このとき日本は連合国側としてロシアと同じ陣営に参加。
そのため、ロシア海軍より艦隊強化のために日露戦争のときに捕獲した艦艇を買い戻すという申し出で、この「宗谷」もロシアに売り渡されることになりました。
1916年4月4日に「宗谷」はロシアに引き渡され、翌4月5日に再びロシア軍艦「ワリヤーグ」としてロシア軍に再編入されます。
「ワリヤーグ」はその後ロシア軍艦として主に北極海でパトロール任務に着きますが、1917年に修理のために英国に入港。
ところがロシア革命でロシア政府が崩壊し、その後成立したソヴィエト政府は修理代金の支払いを拒絶したために「ワリヤーグ」は英国でスクラップとなったのでした。
アメリカで作られロシア軍艦として自沈し、日本軍艦として働いた後またロシア軍艦となるという波乱の人生の軍艦でした。
最後はある意味見捨てられたような形になってしまったのがかわいそうという気もします。
あまり幸せではない一生だったかもしれません。
それではまた。
- 2011/01/16(日) 21:46:19|
- 趣味
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0