エチオピアで、新皇帝に即位したハイレ・セラシエ一世が、国内で富国強兵に邁進しているころ、イタリアでも一人の人物が脚光を集め始めておりました。
ベニート・ムッソリーニです。
青年時代にスイスでウラジーミル・レーニンと知り合ったムッソリーニは、レーニンからさまざまなことを学び、それによって政治運動に身を投じることになりました。
イタリアに戻った彼はイタリア社会党に入党し、そこで党中央紙の編集長を務めるなど辣腕を発揮。
「ドゥーチェ」(指導者・統領)というあだ名をすでにこのころからつけられ、若手党員の筆頭としてその実力を認められておりました。
もともとマルクス思想を引き継いでいたムッソリーニでしたが、時を経るに従い民族の団結が社会的繁栄を約束するとして民族主義的社会主義へと思想が変化していきました。
「第一次世界大戦」では、この戦争がイタリア人の民族意識を高めるとして参戦を主張。
これが中立を主張していたイタリア社会党と衝突を引き起こすことになり、ムッソリーニは党を除名されてしまいます。
社会党を除名されたムッソリーニでしたが、その後も左翼運動家として参戦運動を続け、実際にイタリアが第一次世界大戦に協商国側として参戦すると、志願兵として従軍。
軍曹にまで昇進するも重傷を負って戦場を離れることになりました。
戦後は再び政治運動に身を投じ、武力による権力闘争を繰り広げることになります。
そして「黒シャツ隊」と呼ばれる部隊を駆使して勢力を拡大。
選挙による議席も増やしていきました。
1921年には「国家ファシスト党」を設立。
自ら統領に就任して政治の実権を握ろうと考えます。
1922年、ムッソリーニはのちに「ローマ進軍」と呼ばれる行動に移りました。
これは黒シャツ隊を中心とした武力集団により各地の警察署や郵便局、役所、鉄道などを占拠して、反ファシズム派を威圧しながらローマに向かうことで自分を首相にするように政府に圧力をかけようというものでした。
しかし、「進軍」自体はうまくいかず、軍にローマに向かう列車を止められてしまうなどお粗末なもので、ムッソリーニは落胆いたしましたが、「進軍」を行おうとしたムッソリーニに脅威を感じた国王エマヌエーレ三世が組閣を命じてしまい、ここにムッソリーニはイタリアの首相として政権を握ってしまいます。
首相となったムッソリーニは、自分の足元を着々と固めていきました。
1923年には選挙法を改正。
これによって全得票数の25パーセント以上を得た第一党が議会の議席の三分の二以上を占めるという強引な手法で国家ファシスト党が議席を独占。
さらには労働組合の解散や政敵への弾圧を続け、1928年にはほぼ権力がムッソリーニに集中するシステムを完成し、独裁体制が整いました。
しかし、ムッソリーニが権力を手にした翌年、1929年にアメリカで大恐慌が起こります。
この影響は欧州にも及び、せっかく第一次世界大戦後に回復してきていたイタリアの景気もどん底に落ち込むことになりました。
失業者は膨れ上がり、公共事業への財政支出は増え、企業の国有化も進めなければなりませんでした。
特に農民は凶作と恐慌の二重の打撃を受けており、その救済が急務となっていきました。
ムッソリーニはどこかでこういう状況を打破する必要に駆られていたのです。
こんな状況下でムッソリーニの目に留まったのはアフリカでした。
しかし、イタリア唯一の植民地であるリビアは土地に力がなく魅力ある場所ではありませんでした。
一方、エチオピアは土地が肥えており、疲弊した本土の農民を送り込むには最適の場所と考えられました。
また地下資源も豊富と考えられ、エチオピアを植民地にすることでイタリアの現状を打破できると考えたのです。
ムッソリーニは「ローマ帝国の復興」を旗印にして国民を鼓舞しようとしておりました。
そのスローガンの下でエチオピアを植民地にすることは理にかなったものと考えておりました。
また、1896年の(第一次)エチオピア戦争における「アドワの戦い」で受けた敗北をムッソリーニやイタリア国民は忘れてはおりませんでした。
こうしてイタリアは国内問題の解決と「アドワの復讐」を遂げるため、エチオピアへの侵攻を考えるようになるのです。
再度のエチオピア戦争の火種がくすぶり始めました。
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- 2010/10/08(金) 21:13:24|
- エチオピア戦争
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